配属先は違ったものの、研修が同じの同期入社のNと、先日食事をする機会があった。
彼は1年で会社を辞め、すぐに転職し現在もその会社で仕事を続けている。私は新卒で今の会社に入り彼と出会った。入社して早くも14年がすぎているが、腐れ縁というか、趣味が合うというか、会社が違っても何故か学生時代の友人のように今でも利害無く付き合えている。
転職してその会社に向いていると言われれば、少し違うかもしれない。待遇には不満があるみたいで、将来への不安は拭えない。私よりも休みは少なく、その分給料は若干多い。早くに結婚し、子供も2人授かり分譲マンションも買った。
「やっとローンが2000万切りそうや」
「おぉ、良かったやん」
途方もないローンが続いている。
「お前も、賃貸で十数年住んでたら、1000万近く払ってることになんねんで。それ考えると買った方が得やで」
と彼に言われるも
「ワンルーム買うんか?ありえへんやろ」
と私は答えた。
「死んだらマンションが俺のもんになんねん」
「意味、わからへんし」
「金利組む時の契約がそうなってんねん。たいがい今はそうやで」
「それは知らんかった。それで、奥さんと子供がずっとそこに住めるんやな」
「ガンなっても、マンションの支払いは終了やんねん」
「ほんまか。でも健康に働いてて、支払い続ける方がどう考えてもええやろー」
と私は笑った。
「でも色々と、なんか楽になりたいやん」
「そんなん考えたらあかん。子供もおんねんから。あと何年支払うん?」
聞くと、平成56年までとの返事が。今何年だっけ?(笑)
「小遣いはなんぼや?」
と私が聞くと
「15000円やで」
と彼は答えた。一瞬ポラ30枚とか、東洋なら5回入れるとか思う私の感覚が麻痺している(笑)。
付け加えて
「昼飯は嫁ハンが作ってくれへんから、それ込みで15000円やで」
と言ってきた。じゃあ、東洋には3回ぐらいだ(笑)。
子供の成長のみを生活の糧として、仕事が終わってもアルバイトをしている。
本業の後、うどん屋で働いている彼に
「副業は、ガソリンが下がった時には、キャバクラドライバーどうや。日払いやし、確定申告いらんで」
と強く推しておいた。
「俺の車リッター7しか走らんで」
2人で笑った。
「ほんだら、次買い換えたら、燃費ええの乗りーや」
「2020年まで今の、乗るで」
これもなかなか厳しい。
「じゃあ、ここは俺が払う」と私が言うと
「同い年やから、割り勘や」
と言われ別れた。次会うのは年末ぐらいか。
どこで人生設計が狂ったのであろうか。幼い頃思い描いていたのは、30才ではもう結婚していて庭付きの普通のマイホームを持ち、家族と一緒に幸せな日を過ごしているはずであった。現実は汚い小さなワンルームの部屋で、ひたすら職場との往復の日々で蓄えもさしてない。ごく普通の将来像を思い描いたものの、どこで道が逸れたのか、否これが私の本筋であったのか、それはわからない。このごくごく普通だったもの、それが困難になりつつある。
14才の時、父の会社が倒産する。繊維業を大阪市内で営んでいたが、業界全体が下降産業で、世の不況もあいまって不渡りを出してしまった。当時の数年前、浮世離れした往時のバブル期を知らない家庭で私は育った。会社が潰れるに至るまでには、その間数年に渡り長々と家族は極貧の暮らしをすごすこととなる。晩飯が卵焼きとご飯だけという日々が、何週間も続く。兄達は当時話題になっていた半額バーガーで飢えを凌いでいたぐらいであった。安焼酎で毎日のように酩酊し、暴れ狂う親父を私と兄は兄弟で必死に止めた。
冬場に湯を使うなと親父に叫ばれ、冷水で風呂に入っていた思い出したくもない過去もある。あの時の痛いぐらいの冷たさは死ぬまで忘れることはない。これはもう普通の家庭環境ではないであろうとわかったものだ。
みるみる痩せていく親父の姿を見て、こういう大人には絶対になりたくと、あの時は怒りというよりも哀れみの感情しか今は思い返すことができない。
「世の中金でないと言うけれど、世の大半は金で解決できる」
と中坊の私でさえ、そう悟ったものだ。おそらく中の下、もしくは下の上ぐらいかと、階級があるとするならそう思っていた。
私は高校を出て就職しようと思っていたものの、母が泣きつき大学を出てくれという。当然のように学費など払ってもらえるはずもなかった。甘やかして育てた末っ子の期待の息子に課したのは、月々7万と前後期に25万ずつ入れて、それに加え家から通って欲しいと、花のキャンパスライフを夢見ていた私には、あまりに辛すぎる高いハードルを突きつけられた。そういや、浪人中の予備校の学費も払ったな(笑)。
そうは思ってはいても、大学生活にかなりの期待を膨らませていた。なんと言っても大学生だ。受験もクリアし授業が始まった。そしてすぐに愕然とする。どの教授も自著の古びたカビの生えたような教科書をひたすら読むだけで、それをひたすら必死にノートに拾い続けるだけの学生達を垣間見た時、
「おぉ、俺はこんなところに自分の金で4年もいるか」
と思うと、とても恐ろしいものを感じた。
すぐに退学の意思を母に伝えたが、泣きながら卒業だけはして欲しいと訴えられる。やはり男は母親には逆らえない。週6日フルタイムで働き、私はほとんど大学には行かず卒業する。文系の大学など、なんとかなるもので、そのようなものであった。世の不況で、就職氷河期ではあったが、第何希望であったろうか、辛うじて今の会社に内定を貰えた。母が描いていた青写真のように、私はごく普通の会社に就職した。そして幼い頃から信じてやまない明るい将来が待っていると晴れて社会人となる。
入社式後の食事会で、我々新入社員に向かって当時の社長、現会長は、
「こんなかに社長になる人おんねやわー」
と大阪の商売人よろしく、鼻息を荒くしていた。
「そうか。俺は人と違うから、もしかしたら――」
と期待を持っていたが、これもすぐに夢物語とわかる。
現実は経営を牛耳っている幹部等は、血の繋がりのある同族企業であり、そしてその収益を囲い込んでいた。大手出身の途中入社のエリートは、成績が落ちると平社員に即降格となるグレーの会社であったことは、その当時は知る由もない。生え抜きは50代で一人しかおらず、それも昨夏の人事異動で、私と同じ役職に降格するという、長いプランで人生設計など組みにくい会社であった。「実力主義」とは名だけの「血統主義」そのものであった。料亭通いなのか大きく腹の肥えた息子である当時の専務、現社長の車はレクサス、その父親の現会長は運転手付きのベンツとベタな金持ちを今でも地で行っている。
息子の専務も、取引先の銀行の頭取の娘と見合い結婚し、その後しばらくして専務は社長となり、その社長の奥様は社長秘書となった。社長夫人の秘書様は、ひたすら事業所を回り、ひたすらあら捜しをして、ひたすら夫である社長に報告するだけという、立派な秘書の職責を果たしている。この社長が舵を取る経営は、今も盤石な体制だ。そういえば、授かった一人息子もあと十数年もすれば、入社するから、このブルジョアジーのご機嫌を今から伺っておかなければいけない。
しかし、入社当時そんなものはわかるはずもなかった。まるでトルストイの「アンナカレーニナ」の冒頭、
「金持ちはどれも似たようなものだが、貧乏はそれぞれ違った物語がある」
ということを実社会で身に染みるほどリアルに感じた瞬間でもあった。
いつしか個を没し、ただただひたすら会社人間として、サラリーマンを定年まで演じ上げないといけない。そして
「職業が勝手に付いてくる」
「サラリーマンは気楽な家業」
と綺麗事、美辞麗句を並べ、ひたすら同じことを繰り返す。多くの人がたかだか自分のスペックなどたかがしれているであろうと、この厳しすぎるこの現実社会を受け入れるしかない。多くの人がたいした実力など持ち合わせていない。そういう世の中なのだ。そして幼い頃の淡く夢見ていたものは、確実に幻となりつつある。
「特別な存在な僕」と酒鬼薔薇聖斗が書いたその一文に、ある種何か惹きつけられるものを前にも増して感じたものだ。そしてそれを実社会で嫌でも受け入れなければならない。
市川海老蔵特別公演 「源氏物語」
京都南座 4月
キャスト 市川海老蔵/アンソニー・ロス・コスタンツォ/片山九郎右衛門/梅若紀彰/観世喜正/片岡孝太郎
観劇日:4/9(水)