中島美嘉の歌詞が心を打つことが多く、車の中でよく聞いている。特徴ある高音とメロディも心地よい。多くの失恋の歌詞は、どう考えても女性目線であろうが、未練がましい私の失恋経験に良く似ているなとも思う。恋に破れると、何故か美化され良い記憶だけが残るもので、それをダイレクトではなく、ニュアンスを含んだその歌詞が響いてくる。運転出来なくなったことも1度や2度ではない。

誰かのために何かをしたいと思えるのが愛だと知った

もし、君を失ったとしたなら星になって君を照らすだろう 涙に濡れてる夜も いついつでもそばにいるよ 

「雪の華」

大事な事はあなたが好きで私を好きかどうかはいいの 今だけは

「愛してる」

リズムに合わせておどるその汗は 限界の狭間を越えては襲う 手に染まる愛を喰らい 飛べるのさ 信じて宿る愛は美しい 解き明かせてその身で唇 突き上げてよその身で感情 愛に狂う女は美しい

Love Addict

あなたに名前を呼んで欲しくてはじめて声を上げ泣いたよ あなたにもらった全てのものが 愛だときづいたから

Dear

遥か遥か遠い未来に 強く強く輝き放て 全て全て母なる大地 生きて生きてこの胸の中

「朧月夜~祈り」



挙げればきりがない。

「あなたが落ち込んでいたら、私が月になって照らしてあげる」

と自分を振った男に対し言い、全て私が悪いとも言うのだ。

私の中でのルールとして、新人のポラを撮らないというのがある。

「細かい字で裏にビッシリ」

というのが苦手である。次に繋げようと必死なのであろうが、これが好きになれない。かといってサイン無しとうのもやや寂しく、貰えるものなら貰いたくもあり、必要なのは日付と宛名とサインぐらいが調度良い。キスマークなんて入っていれば尚のこと良いのである。そして出来る事ならば演目についての何かしら書いて欲しいとも思うわけだ。文量に比例し情も湧いてくるというのがポラの魅力でもあり、それは恐ろしいぐらいに中毒性を秘めている。ステージで裏切らない限りは

「私が写真を買うというのは、引退するまで応援する」

ということになる。記念で撮ったりとかは一度も無い。しかしながら、私の観劇姿勢に対し、新人の多くが次のステージを観ることのないまま、いつの間にやら去っていくのが常であった。

「もう、こんな思いはしたくない」

と、続きそうと思われる新人を撮るというよりも、新人を全く撮らないという選択をしてしまう方が、私にとってのポラ撮りの基準となってしまった。多くの客が新人を温かく迎えるように、観るだけなら初々しく微笑ましく思え、それ以上の深入りを求めてしまうと、悲しい別れが多くなるのであるから自然とそうなってしまうのであった。

デビュー当時から観ている青山はるかちゃんもその例外では無く、3週ぐらいは撮らなかったものと記憶している。500円とか1000円だったとかはあまり関係ない。一晩中でも愛撫したいような裸体に、たまに見せる切ない表情が印象的で、デビュー作といえば潮を吹くベッドショーであった。これは今までに例が無く、どちらかと言うと色物的扱いだったのかもしれない。今までの新人の例を見る限り、

「このようなステージは続くわけがない」

と早合点をし、私以外でも多くの客が感じたにちがいなかった。その後の目ざましい努力もあり、元々体の柔らかさ生かしたベッドショーは、ため息が出る程美しく、最近では本格的なステージへと変化していった。

最近、引退された海宙まみんちゃんをふとした時に思い出すことが多い。ステージの良さと愛されるキャラで人気があった。131月のTS捜査があり、その後の決まっていたコースが全て消え引退したわけであるが、彼女の絶筆となったブログでは、芸術家らしい語り口で、

「表現活動は続けるが、しばしのお別れ」

と結び、限りなく引退に近いけれども少しの可能性があるとも読み取れるものでもあった。

2中の晃生でまみんちゃんと会う約束を果てせずまま、3頭の晃生に出ていた青山はるかちゃんから、

「これ私のじゃないよ」

と私のポラ袋をくれ、中にはTSへ行った時のまみんちゃんのポラが入っていたのであった。そこには今まで明るい言葉しか書かないはずであったのに、私の“大嫌いな”細かい字でビッシリと書かれてあったのだ。そしてそこにはっきりと「引退します」と書かれてあった。

うなだれている私に対して

「まみん姐さんは大丈夫だから」

とはるちゃんは言い

「まみんちゃんの分も頑張ってね」

と声を返すのが精一杯であった。どう考えてもはるちゃんの方がもっと辛い思いをしているのであったのであるが。

踊り子がデビューする。当然ながらその週にデビュー作という新作を出す。1年が経ち、そこで1周年作という新作を披露する。周年作とは、年に数回出す新作とは意味合いが変わってくる。踊り子としての虚構があるかもしれない誕生日とは違い、周年とは踊り子の間違いない真実があるから、誕生日よりも周年の方が重き扱いとなる。劇場の入りが見込める開館記念、正月、G.W.、お盆興行よりも周年週の方が大事なのである。そして踊り子は周年作という、集大成とも言える新作を出すのである。



20161中 晃生ショー

(香盤)

1. 有馬美里 (道頓堀)

2. 乙姫くるみ (フリー)

3. いちる (TS)

4. 左野しおん (道後)

5. 浜崎るり (晃生)

6. 青山はるか (晃生) 周年♪ 1/15誕生日♪



2演目:有馬美里/いちる/浜崎るり

1演目:乙姫くるみ/左野しおん/青山はるか



はるちゃんの4周年作は「かぐや姫」。

ある日翁が竹取りに行くと、金色に輝く竹を見つけた。その中に小さい娘がいた。

子を持たぬ老夫婦は、この娘を自分の子のように寵愛する。成長すると街で話題となる程美しくなり、多くの男達から求婚を受けたが、受け入れることは無かった。

かぐや姫は悲しげに月を見つめ、翁がそれを問うと

「私は月の都の人間です。十五夜に月から迎えが来ます」

と言い、満月の夜に天人に連れ去られ、かぐや姫は月に帰っていく。

小さい頃、日本人なら誰もが聞かせられた童話、古典である。

月夜に衣を脱ぎ捨て、満月を儚く見つめながら、手を使わないスワンやブリッジは美しい。

本当に月に帰っていってしまうのではないかとさえ思えるほどだ。

本来なら、この周年作を引っさげ、全国を回る予定であった。

美しいかぐや姫を帝や公達が求愛したのと同じように、はるか姫に多くの客が恋したにちがいない。

しかしながら月に帰っていく。青山はるかちゃんは、今週の晃生をもって踊り子として2度目休業となる。

10日連続というストリップ興行は肉体を酷使する。そして深夜レッスンを繰り返すと回復もままならいだろう。

かつて私は

「好きな踊り子とは23ヶ月に1度会うぐらいが正しい。何故なら観たことの無い演目を2個観られるから」

と、未見の演目についての、どうやらスト常連にあるまじきことを、あたかも普通だと思っている私の感覚を正しいと勘違いし、軽く数年前に書き記したのを彼女が知っているのかは知らないが、

「ごめんね。次の晃生、レッスンがあるから観たのになっちゃうよ」

はるちゃんは言ってきたのであった。そんなものをはわかっていて行っているのだ。

「旧作なら2個で良いんだ。常連客はそれで満足する」

「飽きないでね。嫌いにならないでね」

とはるちゃんは言い返す。そして旧作4個も出したら大変だろうに。トリの重圧もあったにちがいない。私の理想の踊り子に限りなく近づいていくではないか。朝早いのに帰れないじゃないか。まぁ、早く帰ったところで、悶々として眠りに付けないのではあるが(笑)。

いつ観ても綺麗ベッドショー。より磨きがかかっているように思える。私が言うのだから間違いない。

照明の美しい東寺や渋谷で観たら、また違った感想を抱くかもしれない。

月に帰るのはまだ早いよ、はるちゃん。体調を万全にして戻って来て欲しい――。



観劇日:1/14(木)、15(金)