年四千円の定期昇給は、毎年の社会保険料の上昇により、手取り分は微増に留まっていた。30前頃、上司から昇進の打診を受けたが、私は二度断っている。延々と働く上司の姿に、羨望というよりも哀れみのようにしか、当時の私には思えなかったからであった。今の職位は同期でニ番目と、なかなかのスタートを切っていたわけではあったが、これを機会にどんどん追い抜かれていく。そして彼らは家族を持っていった。この一般的なチャンスとされるものを自分の意志で逃したことにより、もう何もせずとも、僅かに増え続ける給与で定年までいくものと私は思っていた。

 

今回の三者面談では、会社の会長と人事部長の話を長々と聞き、それを受け入れ

「このあたりが妥協ラインだろう」

と、今の私には断ることの選択を出来なかった。普通に考えれば、いつまでもストリップばかりは行ってはいられない。後に振り返ることがあれば、この時がターニングポイントとなりうるにちがいない。

 

五のジムと週一は朝からストリップ、週一で歯医者通いを今までのルーティンとしてきたが、着任してから一週間、22時退社が実に四回あった。たかが手当てが六万増えたところで、拘束時間が長くなるのは目に見えていた。先日あった博報堂の過労の問題も社会的に広まり、数年前よりもマシになったとはいえ、デフレ下の影響をもろに受ける業種とあっては、会社のとった方針というものは、浅草よりも長い中休憩を三回挟むという、安易なものであり、実情は以前と何も変わりはしないものであった。

 

真直ぐに家に帰ることを許さなかった私にとって、いったいこの時間から何をしろというのだ。とりあえず半年間は耐えてみて、醜く痩せてきたらその時だ。ストリップへ行く回数は変わらずとも、新地へ行くのが激増しそうなのには間違いない(笑)。

 

踊り子の演りたいものと客の観たいものが合致していたら、それは良い演目となるのであるが、時として客側は我儘なもので、少しは変わったものを観たいという欲求に駆られる。それもその観たいものが大きく外させるようなものも嫌い、かといって

「曲と衣装は変わったが、どこかで観たことがある」

というような、既視感も良しとしない存在でもある。それに加え、ポラなどの不確定で不安定な要素も含まれる。およそ演目のみでその踊り子の評価が下されることはない。

「あの踊り子は客の方に向いていない」

とかをよく客同士で言うものだ。

 

ゆえに、踊り子は客が既に抱いている既存の観念の枠内で思考し、演目は作られる。その枠内において、人間性、恋愛観、世界観といったものをどんなに舞台の上でスリリングに演じあげていたとしても、客側の了解をはみだし、揺るがすことがない。したがって踊り子はその客の通念を切り込んでいく必要がある。それを揺るがすことの出来る踊り子に、客は、私は惹かれるのである。

 

「書かないの?」

「いやぁ。休みが二日潰れますので不可能です」

とその度に私は答えてきたが、はるちゃんだけが踊り子で唯一の読者であると思いたいが、私自身も行った劇場の全ての記録を残したいと思っている。まとまった時間が取れないのと同時に今後も取れそうにない。おそらくそれは定年してからだろう(笑)。10日で変わる興行事であるのと、観劇回数のスピードにそれがまず追いつかない。周りの気持ち悪いノイズなどは全く気にしてはいないが、ツイッターで当たり障りの無いことを軽く呟く程度が、速報性があり今の時代に合っており、記憶が新しいうちに留まりやすく、そして忘れられやすい。

 

1中の周年で二回目の休業を発表する。

「普通は周年作を持って、全国を回るものではないか」

と思っていた。一週しか出さないその周年作に、そこまでしてまでも何かを遺したいという彼女の想いというものを

「何の感情を入れること無く、ドライに観よ」

ということは、土台無理な話というものであろう。

 

病に伏すことがわかっている踊り子に、そして休業というものは限りなく引退に近いという事実を、客は皆理解していた。休業するとほぼ復帰の見込みを持つことさえ考えにくい業界であるから、それはもう難しいというより、諦めていた。あの時出した会心の周年作「かぐや姫」を観た時、もうステージに還って来ないだろうと思えさえもした。

 

どこまで体が回復したかはわからないが、ついに11中で復帰を果たす。どんなに明るく振る舞っていたとしても、病み上がりということを考えれば、万全な体調では無かったのかもしれない。しかしながら、舞台にあがる以上は、“プロとして相応しいステージ”をしなければならない。

 

もし1中の周年の時よりもステージが劣化しているのならば、幕が閉まった時にそっと抜け出し、用意していた花を受け付けに渡し、

「恥ずかしいから渡せなかったです。階段のところにでも飾って置いて下さい」

と私は立ち去るつもりであったが、その心配は全くいらなかったようだ。

 

グリーンのドレスで登場するや、私の全ての知覚に働きかけ、呼応した。美術館の裸婦像を観ても、欲情することはないことと同様に、現代ストリップのステージには芸術色が多く占めるようになったわけであるが、この相反する二つの感情が常に交雑していき、ベッドではそれが逆転する。桜木紫乃さんは、官能の奥深くに眠っているもう一つの部分という表現を使っているのであるが、私にはその境地には達していない。また、年寄りが孫娘の発表会を観ているような感覚でもなく、若い客なんてものは欲する対象としての、いかに想像出来うるかが全てであり、近くて遠すぎるその舞台を眺めているものなのだ。

 

かつて、新地のあまりにも赤暗い室内に、

「明るくできない?」

と私は言ったことがあったが

「無理だよ。赤はねぇ、肌を綺麗に魅せるんだよ」

とその女給は笑っていたことをふと思い出した。それと似た錯覚をストリップのステージ演出として使われる。晃生の赤い照明はより色気が増し、白は芸術性を高める、そこから体内の五感を総動員させ、冴え渡り、感度を上げていくものなのだ。

 

時が来れば はなればなれ 互いの道 帰る定 ああ一度の逢瀬のために 重いこの衣装脱ぎ捨てて すべてを忘れ ただ今宵 踊りましょう

 

時折、大きな月に目をやるはるちゃんに、今にでも遠くに行きそうな感じがしないでもなかった。

古から

「あの人も同じかの月を見ている」

と、愛する人を想う時、多くの歌人が詠っていたではないか。

 

美しすぎるその裸体は、本人が望まぬとも自己主張を止むことを決してさせなかった。

 

ポラで花束を渡す。私は相当震えていたと思うが、高そうなデジカメは、補正が利いており綺麗に写っていた。久しぶり会った知人にツーショットを促されたが

「俺は引退する踊り子としか、ツーショトは撮らない」

と突っ張った。

 

オープンショーは男達を無力にする。

「やっぱ、晃生の近さは良いねぇ」

と思いながら、今後もこの踊り子を中心に観て行くことに間違いないと確信し、はるちゃんに見送られ劇場をあとにしたのであった。

 

「思い出にするのはまだ早いし、飽き足りない。月に帰る時は、引退する時はホームで盛大に引退興行をする時だよ」

と、これだけはお願いしておきたかった。

 

 

201611中 晃生ショー

(香盤)

  1. 美月春 (道頓堀)

  2. 雪乃舞 (小倉)~15 /寿恋花 (晃生)~20

  3. 園田しほり (杉プロ)

  4. 左野しおん (道後) 周年♪

  5. 青山はるか (晃生) 復帰♪

 

2演目:美月春/青山はるか

1演目:雪乃舞/寿恋花/園田しほり/左野しおん

 

観劇日:11/14(月).11/20(日)