クリスマスになると、いつも「フランダースの犬」を思います。
この物語には、こども向け作品として、批判的な意見が結構あります。
「童話や絵本は、こどもに夢の種を与えるものでなければならない」
という、とにかくハッピーエンドでなければならない、という説もあります。
しかし、こどもたちに現実に生きていく力の根源を植え付けるものも、フィクションの世界の仕事なのではないかと思っています。
今年はいくつかの物語を創作しましたが、やはり「伝えたいテーマ」に、現実的な具体性がないと、本気でやれません。
童話や絵本のやわらかい世界をお借りしても、しっかりと伝えるべきものがあることが大事だと思っています。
メディアの技術も進歩しました。いま、なんでも出来てしまいます。いろんなことが・・。
しかしどんなに格好よくできても、もう「アイドルごっこ」やってるときじゃないと思うんです。
さてフランダースの犬。
アメリカではハッピーエンドになったそうですが、日本版のアニメはご存知の昇天シーンで終わります。これが映画版になると、大人になったアロアが修道女になっているという「蛇足」までついています。
それが日本式の解釈ということなのでしょう。
あまり知られていませんが、原作ではネロとパトラッシュが死ぬシーンはありません。
アロアも雪道を必死でネロを探したりはしません。
アロアの父はお金が戻って喜び、アロアはネロと遊ぶことを許され喜び、楽しい宴会のイブをすごしています。そして翌日、大聖堂でいたいとなっているネロとパトラッシュの姿に、という結末です。
曲解かもしれませんが、西洋的な発想では、アロアとネロは隣人ですが、「住む世界が違うものは、結局どうやっても一緒ではないんだ」という、身分社会の現実を見せている気がします。