「ヌエ」のあとさき(1) | 小谷野敦のブログ

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 そういうことが、二、三度あったという記憶はある。それがいつのことかというと、恐らく一九九五年から九六年ではなかったかと思う。当時三十代だった私は、大阪の大学に勤めながら、休みになると埼玉県の実家へ帰っていたのだが、一年もしないうちに、のちにパニック障害などという名で知られるようになる不安神経症に罹り、新幹線が怖くて乗れないようになってしまった。子供の頃から閉所恐怖症ではあったのだが、大阪で住んだ実質上はアパートというべき、四階にある閉塞感のある室にいたのも一因であろうかと思ったりもした。
 「ひかり」に乗れたのは九五年のはじめに実家から大阪へ帰る時が最後で、その時も名古屋を過ぎたあたりから次第に恐怖が募っていった。その後で、あの大地震に遭遇したから、余計ひどいことになった。
 だから春休みに実家へ帰る時は「こだま」に乗って、それも恐る恐るだったのが、実家で休んでいれば快くなるかと思ったのがならず、むしろかえって「電車に乗れない」ということが頭にこびりついて、わざわざ宇都宮まで出かけてみたりしたが、帰りの電車が長いトンネルを抜けている時に、ざざっと恐怖に襲われた。
 私は実家に帰る時は、とっている新聞を、販売所に電話して止めて貰うのだが、帰省が長引くと、どうも勝手に判断して配達を始めてしまうらしく、六階建ての貧相なマンションの入り口の郵便受けは、新聞とチラシと郵便物で一杯になっているのだった。さらに自室へ戻ると、私はお茶が好きで、急須でお茶を淹れて飲んでいるのだが、帰省する時にそれらの始末をしないで帰るため、茶碗のほうは単にカラカラに乾いているだけだが、急須に茶の葉を入れたままにしておくから、それが腐ってどろどろになっている。
 なぜ茶の葉を始末しないかというと、こだまであろうと新幹線に乗るのが怖くて、家を出る時は頭が半分くらいパニックになっているから、急須の茶の葉までどうにかする余裕がないからなのである。だからそれを洗うところから始まって、何しろ腐っていたのだから煮沸消毒して、それからお茶を淹れて飲む。私はお茶が好きだが、外出した後のお茶はひときわ美味い。
 だがその時は、夕方には帰り着いていたはずである。だから恐らくその翌年の春、よりひどいパニックが起きて、どうにもしようがなくなり、とうとう父親から「気違い病院へ行け」と言われて、それでふっきれて大阪へ帰った時のことだろう。翌日のもう午後二時過ぎに、心配してついてきてくれた母が東京駅まで送ってくれて、それから、私は東海道線の各駅停車に乗った。それは古めかしい進行方向向き座席の車両で、私のほかにほとんど乗客はいなかった。東海道線は、一駅間も当然ながら長いので、身体も精神も縮こめるようにして乗っている。西向きだから、太陽が沈んでいくのが見える。とてつもなく寂しい、これから自分はどうなってしまうのだろうという旅程だった。
 今になって思い返してみて、その時自分は、存外楽な気持ちだったのである。静岡駅が終点で、着いた時はもう真っ暗、夜七時にはなっていた。そこで軽い食事を摂って、電車に乗り慣れた私は、そこから「こだま」で米原まで行った。だが、米原ー京都間は、こだまとしては最も長く、三十分ほどかかって、以前恐ろしい思いをしてから、乗らないようにしていた。だからそこからは、琵琶湖線の各駅停車である。そのまま京都を過ぎて、山崎駅まで来ると、降りて少し歩くと阪急大山崎駅へ着くから、そこで阪急線に乗り換えて、私のアパートがある阪急宝塚線石橋駅まで行くのが、その頃から十年近く、私の一般的な経路だった。
 だが、確かその時は、もう疲れ切っていて、どうなとなれという気分で、米原を過ぎてもこだまに乗り続けて、新大阪駅へ着いたのが深夜だった。もう電車がないのでタクシーを飛ばして、といっても実はタクシーも狭くて怖いのだが、この時は感覚が麻痺していた。マンションへ着いたのは午前一時過ぎで、入り口の郵便入れの前に座り込んで多量の新聞、郵便物、チラシを分別して要らないものはそこにあるゴミ箱に捨て、残りを大きな鞄に詰め込んで自室へ入り、それから先に述べたお茶淹れをして、狭いプラスチック製之机の上で、郵便物を開封し、新聞を読んで、訃報、および、海外の政治家の首相や元首の交代の記事は切り取って、それ用のノートにスクラップする。
 実はこの時間が、至福の時だったのである。もっとも、神経症病みは、真夜中になると精神が安定するので、そのせいもあったかもしれない。
 私はその当時から、大阪へ帰るために実家を離れると、すうっと気持ちが軽くなるのを感じていた。私はその後、二年ほど実家へ帰らない時期があった。米原まで行ったのに、どうしても新幹線に乗る気が起きず、大阪まで帰ってきたこともあった。
 五年勤めただけで大阪の大学を辞めて東京へ帰ってきた時に、実家に住まずに東京に住んだのも、定年になって毎日うちにいる父と一緒に住みたくなかったからである。そこまでは自覚しているのである。
 東京へ帰ってきてからは、時おり実家に寄ることもあり、マンションから非常勤先の大学へ行って実家へ帰り、また大学へ行ってそこからマンションへ帰るといったこともしていた。それでもある夕方、マンションから実家に帰ろうとして、武蔵野線回りではなく秋葉原経由で帰ろうとして、秋葉原駅でどうしても精神的に苦しくて帰れなくなり、引き返したこともある。
 そのうち、実家へ帰ると、父親と一緒の家にいるのが苦しくて、三泊するつもりだったのが二泊で帰るといったことが多くなった。私が大阪から帰ったころに父親は脳梗塞をやったらしく、もともとある程度おかしい人だったのが、なおおかしくなっていたのである。
 そこまで分かっていてなお、私はあの時、ヌエのいる家にいたから神経症が悪化したのだ、ということに気づいたのは、大阪から帰ってから七年後に母ががんになって、ヌエが「死んじまえ」だの「くそあま」だのと暴言を吐き、私や母や私の妻から「ヌエ」と呼ばれるようになってからだったのである。
 これについて、私は何人かの精神科医に罹っているのに、誰一人、むしろ精神科の定石とも言うべき父親との関係を指摘しなかったということが、驚くべきことだと思った。
 現在の一般的な精神科医は、精神分析などは用いないが、それがかえってこのような結果をもたらしたのか、あるいは私が原因を先取りして、大学で同僚に恫喝されたとか、これから出る本の世評が気になるとか、博士論文を指導教官が読んでくれないとか言ったのが、医師の先入見をもたらしたのか。
 あとから考えれば、私が発症したのは、頻繁に実家へ帰っていた間で、その年ちょうどヌエが一年延長した定年を終えて家にいた時期だったのだが、何しろ始めのうちは、実家へ帰って静養すればよくなるはずだと思い込んで、それで実家にいたら悪化していたのである。要するに、私は母に会うのには実家に帰りたいが、ヌエには会いたくないという状態で、さらにヌエは脳梗塞を二度やって頭がおかしくなり、仕事もやめてやることがなくイライラしていたのであった。
 しかし、ヌエが母に暴言を吐き、私の目の前ですらおかしなことを言って私がどなりつけたことで、私は長年月、ヌエに対して抱き続けてきた違和感と嫌悪感を、はっきり「憎悪」に変えることができたのである。母は、ヌエが好きだったらしいから、その男から「死んじまえ」とか「あんたとなんか一緒に暮らしたくないんだよ」などと言われ、末期がんだというのに市営住宅に住もうなどと考えるほどに思い詰め、絶望して死んでいったのだから、脳梗塞で暴言を吐いたのだなどという擁護論は、私にはどうでもいいことである。
 私が親しくなった女性は、どういうわけかたいていは父親を嫌っていた。世間では近ごろ、母と娘の愛憎入り交じった関係に焦点が当てられることが多いのだが、私の周囲では、圧倒的に反父派のほうが優勢だった。先輩の吉川玲子だけは、父親が嫌いではないようだったが、母娘二卵性といった感じで母と密着している人だった。
 だが、私の家には、多分それらの女性とは異なる事情があった。ヌエが高卒、母が中卒だったということで、大学へ入ってからは、恐らく私の周囲に、そういう家庭に育った人はあまりいなかっただろう。
 ヌエは生涯に三度家を建てた。実家に近いところに平屋、埼玉県へ越して小さな二階建て、私が高三の時に移った、終の住処である。しかし、給料はそれほど良くなかったようで、私が大学へ勤めて二年目くらいに給与明細を母に見せたら、「こんないい値段の給与明細初めて見た」と言ったから、私はぎょっとしたことがある。母もショックだったのではあるまいか。
 そのためにヌエは、時計修理のアルバイトを自宅でしていて、それは私が幼い頃からそうで、だからヌエには自室はあったが、それは時計修理のための部屋であり、机の上にところ狭しと修理器具が置かれ、ヌエは片目に拡大鏡をはめて、いつも修理をしていた。これがいくらかは脳梗塞の原因になったかもしれないとは思うが、定かではない。
 そう言えば、家族のためにせっせと働く立派な人だ、と世間では思うかもしれない。しかしそれなら、戦前の家長はみな偉かったということになるほかない。
 もちろん、母も折々に仕事はしていた。だが、中卒でしかなく、のちに通信制でやっと高校を出たという母に、そんなに割のいい仕事があるはずもない。学童保育の先生をしていたのが一番いい仕事だったかもしれない。