「ヌエ」のあとさき(2) | 小谷野敦のブログ

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 最後の家を建てた時に、明らかに計算違いをしてしまったのは、高三になる私と弟を、八畳の同じ部屋にしたことで、隣に四畳半の部屋を作ってヌエの仕事部屋にしたのだが、私と弟の同居は無理で、半年で弟が四畳半に移り、脇に二畳ほどの小部屋を作ってヌエの仕事場にした。最初から、私と弟は別部屋にすべきだったろう。
 村上龍は、カネで幸福にはなれないが、カネである種の不幸は避けられる、と書いていたが、私の家はまさに、カネがあれば避けられた不幸を背負い、それが両親の最後の時に、思いがけない不幸へふくれ上がってしまった例ではないかと思う。
 そんな中で、母は教育に費用を惜しまず、私は教育器具を買い与えられ、弟とともに米国でホームステイしたりした。それが父には、妻が自分より息子のほうをかわいがっているという怨念になり、病んでからおかしくなって、妻ががんだという事実を受け止めきれなくて暴言になってしまったのである。
 私が知る限り、母が入院したのは、がんの検査入院が初めてであって、それで入退院をくりかえして死んでしまったのだからかわいそうである。 
 しかし、母が心身に変調を来したことはあり、更年期障害かと思ったが、計算するともっと早い、四十代始めの頃だった。最後の家だった記憶があるから、私が高校三年か予備校生の時で、秋ごろだったように思う。夕方帰宅すると、居間に布団を敷いて母が寝ていた。母は疲れたとか眠いとかで昼間から寝るような人ではないから、病気か、と思ったが、重病なら入院しているだろう。それに、眠っているようでもあったから、私はとりあえず二階の自室へ行った。
 母は体の弱い人で、よく目眩を起こしたり、風邪で嘔吐したりしていた。特に体温が低く、暑いのに汗をかかない、と懸念していた。三十五度くらいで、これはがんになりやすい体温だという。
 実はその時は、北千住のあたりの電車の中で倒れたのであった。たまたま知った女性がいたので、家まで連れてきて寝かせてくれたというのだが、私は、寝ているのを声もかけずに行ってしまったと非難された。それから二年ほど、母は電車に乗るのが怖いという病気になったらしかった。あとで私が電車恐怖になった時にその話をすると、母は色をなして、そんなのなかったわよ、電車に乗るとまた倒れるんじゃないかと思ってただけ、と否定した。昔の田舎の人だから、遺伝ということを極度に恐れてそんな言い方をしたのだろう。

 だが何にしても、ヌエに、借金をこさえるとか女を作るとか酒乱だとか暴力を日常的にふるうとかの分かりやすい悪徳がなかったのは、少なくとも私には困ったことだった。もしそういうものがあれば、私はもっと分かりやすくヌエを憎めただろう。だから、ヌエががんの母に「お前なんか死んじまえ」と言ったと聞いた時は、ゆっくりとだが、私の中に、これで大手を振ってヌエを憎める、という思いが兆していたのであろう。あるいは、これで世間に分かってもらえるという思いもあったろう。
 私は、母の発病から死までを描いた小説を書いた。これは編集者には好評で、××賞の候補にあげられたが落とされた。それから四年後、ヌエへの怒りと、それ以後の死ぬまでを描いた小説「ヌエ記」を書いて、これも××賞の候補にあげられたが、落とされた。
 私小説が奇妙な誤解を受けることは、かつて萩原葉子が『蕁麻の家』を書いて、父朔太郎がいかに祖母つまり朔太郎の母の圧政下にあり、葉子もまたその被害を受けていたかを描いた時に、内容を信じず「作者の被害妄想」とした人があったことでも分かる。
 私のこれらの作品も、似た運命をたどった。だが、「たとえ少々ひどいことがあったとしても、営々働いて養ってきた父親をこんな風に言うのはいけない」と、思っている通りのことを言われるなら、それはその人の意見であって、私は賛同しないけれども、意見の違いだからいい。だがそうではなく、「実は父親が好きなんじゃないか」といった見当違いなことを言われたのには憮然とした。
 なるほど世間というのはこういうものか、と改めて思い知った気がした。ヌエが母に吐いた暴言について、私はヌエの死後、実家で見つけた母の手帖に、それが克明に記されているのを発見してショックを受け、「ヌエ記」の冒頭に書いておいたのだが、あまりに衝撃的なので、編集者に送る前に削除していた。××賞に落とされてすぐ、私は当該箇所をブログにアップした。するとツイッターにいた作家のMさんが、これはぜひとも入れておくべきだった、と言ったから、私は単行本にする際に、その箇所と、最後の、母の自罰的な「淳が不幸ならそれは私のせい。育て方を間違えたから」というのも復活させた。
 ところが、それさえも、まるで焼け石に水のようだったのである。