本心としては | 月のベンチ

月のベンチ

両親の闘病記

同じ病名でも、同じ障害でも、ほんとうに状態はさまざまだ。
発症前の健康状態や年齢、重症度、その他いろいろな理由によって目に見えて回復して行ったり、または下降線を辿ることもある。
それは、妬むとか羨むとかではなくて、事実。

うちは“たまたま”意識回復せず、体質的に肉芽ができやすく、しかも急性期に開けた気管切開孔がうまく開いていない(らしい)。
右肺に胸水も貯留し、心拍数もSPO2もすぐに変調をきたす。
転院のたびに民間救急車で万全の体制で搬送しても、そうだった。
他病院の外来受診をしたときも、体調を崩した。

そういう人はいっぱいいると言われればそうかもしれないけれど。

でも、やっぱり、回復していく人が羨ましいのは人情。
本心。

母が次々災難に見まわれるのは、私のやり方が悪いだけなのかもしれない、とも思う。
それでも、みんなそれぞれの居る場所で、それぞれに辛いことに対峙しているのだと思う。


最近の出来事。
いつも優しい言葉をかけてくれるスタッフさんが言った一言。

『私は何があっても胃ロウも気管切開もしないわ。
そんなんで生きていたくないもの』

たぶん、この人は大切な人がこのような状態になったことがないのかもしれない。
だけど、こうした職場にいて、毎日母のような障害のある患者さんたちと接していて、この人が日々感じたことの答えがこれなんだろうか?

いや、この選択は間違っていない。
ただ、母の前で言うべき言葉ではない。
これは、気管切開や胃ロウをしている人すべてを否定する言葉だからだ。
他の場所で言うのも思うのも構わない。
自由だ。
当人の前でなければ。

私はそれを聞いて、何も言わなかった。
瞬き一回する間に、自分の中の全ての扉を閉めただけ。
こんなセリフ、言われ慣れている。

母にかける言葉に困っただけ。
『大丈夫。明日も私とリハビリがんばろうね』
それだけ言った。