深度5幸せ 「改訂・土方巽と三島の首」の巻



土方巽というすごい表現者がいた。いわゆる舞踏家である。


彼が公演を行うと、新宿コマ劇場の周りを、当時の文化人がぐるりと二周ほども並んだそうだ。1960年代のことだ。彼の元には様々なアーティストが集まってきた。 寺山修司・三島由紀夫・オノヨーコ・ジョンレノン・・・・・


彼は一升瓶片手に文化人のお宅をまわったそうだ。そして徹夜で表現について論破し合う。延々酒を飲み、トイレも行かずに論破する。おかげで彼が自宅に戻ると、白い股引が黄色く染まっていたとのこと。


現在、これほどまでに人と語り、表現について考えているアーティストが存在するであろうか。

情熱を傾けることはカッコイイ事ではないのか。声を大きくして堂々と人と向き合う事は自己を育てる。コミュニケーションツールは自分の目、口、体であるべきではないのか。プリミティブに感じるかも知れないが、そこには最も強いsensationが在る。


そんな土方にsensationを受けたアーティストの一人に三島由紀夫がいる。

檄をとばし、クーデターに失敗し、割腹自殺をするにいたった悲劇の巨人。

時に土方と関わってから、自らの肉体への興味が深くなっていった三島。最も彼をボディビルディングの衝動へ掻き立てたのは、土方に付いていた一人の青年の肉体美であったという。

高校時代、彫刻を学んでいた僕は、介錯された三島の首が長いすに置かれている写真を見た。

それは胴に繋がっていた首とは明らかに別物で、それそのものがズッシリとした量感を纏った肉の塊である。

その量感そのものが、彫刻のなんたるかを僕に教えてくれていた。


なぜあの時代の芸術家に自分は惹かれるのだろう・・・60年安保闘争に羨望な眼差しは微塵もない・・・ならば時代ではなく、人ではないか。やはりあの当時の表現者に惹かれるのではないか。


僕はクリエイティブの仕事に就いている。最も商業ベースに乗った類のものに。いつも俗な世界を覗き見してマーケティングに左右されながらクリエイトしている。僕の周りには純愛も情熱も濁った皮膜に包まれて、確かな姿が見えてこない。何があの時代の表現者と違うのだろう。なぜ彼らがこれほどに眩しく感じるのだろう。

皮膜は僕自身のものなのか、今日も見えない表現の道を歩く。

土方巽は禍々しく舞いながら、三島由紀夫は肉体美を誇示しながら、今日も僕の現に夢と化す。幸せ幸せ幸せ幸せ

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