深度33幸せ「恥の文化」の巻き


1983年、映画祭で沸くカンヌで、二つの日本映画がグランプリを争っていた。

一つは大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」。

もう一つは今村昌平監督の「楢山節考」。


結果は、「戦メリ」の圧倒的有利といわれた下馬評をひっくり返し、「楢山節考」がパルム・ドールに輝いた。

もちろん私も「楢山節考」が好きである。日本人は本来、こうも貧しく、土にまみれて、性に奔放で、残酷な暮らしを送っていたのかと、日本人として日本人を考えさせられる、貴重な映画。

しかし、この日本の風土・風俗・気質を外国人が理解できるとは考えがたい。一体なにが受けたのであろうか。


それは通訳の優秀な説明にあったといわれている。


楢山節考の上映前に施された説明・・・「キリスト教圏は罪の文化。日本は恥の文化です。」


なるほど、楢山部節は貧しい農村での、姥捨て山の物語。

家族の支えを受けて生きながらえる事を「恥」に思った婆様が、自らの歯を石で叩いて抜いて、一日も早くお山に捨てられるように画策するというもの。


自らを律して死を選ぶ。「恥」の文化は海外の人々の心を打ち抜いた。


テレビで見る時代劇に登場する農民は、みんな農民を表す記号的なユニホームを着ている。きちんと。

しかし「楢山節考」の農民は、前か後ろか分からぬほどのボロボロの布着れを纏い、みな不潔で真っ黒。髪は伸び放題でバサバサ、匂いがたちこめそうなほどに。


なるほど、これが貧しい日本人の本当の姿なんだろうと思う。


この原始人のようなちょっと前の日本人(私たち)は、村というコミュニティの中で、残酷なルールを強いていた。

育っても働き手にならない未熟な胎児は田んぼに捨てられ、盗みを働いた一家は、「悪い血は絶やさねば」と、生きたまま土に埋められ、収穫した作物は、均等化しながら物々交換を介して、協力し、生きる。


現代ではどうだろう。

他人の果樹園や田んぼに入って、収穫物を根こそぎ盗んだり、他人を犠牲に私腹をこらし、親でも子でも都合で殺め。快楽に溺れ、自己中心的で、生きている実感をなくし、恥も外聞もない。


キリスト教は自らを罪人と設定して、卑しい自らを懺悔し、犠牲愛を歌う。

ボランティアが欧米で盛んなのもそのためだろうか。


さて日本人は今まだ「恥」をもっているか。自らを律し、他に迷惑をかけることを恥とするイデオロギーを。


やはり、そんなものは、とうにゴミ箱に捨てられてしまったのか。この国にあるのは「恥」を持たぬ、恥ずかしい日本人が当たり前のように闊歩している現実。


天国の今村昌平監督は、なにを思う。幸せ幸せ幸せ幸せ