本部稽古 抜刀術 3月16日(日曜日)

 15時30分~17時30分 新座体育館


今日は女性門人に合わせて抜刀術の基本稽古が行われました。

抜刀術の基本ですが、同じ動作でも前に出て行うか、後ろに下がって行うかで理合が細かく変わります。

単純な同じ動作をただ前に出たり、後ろに下がったりして行うような移動稽古ではありません。

前に出る時は前に出る時の、後ろに引く時は後ろに引く時の理や意味があり刀の角度や足の位置等もそれぞれ全て変わってきて、それが円空流の抜刀術の形に繋がっていきます。

このような円空流の基本を疎かにして【他流他武道とは、基本と極意は全て同じで途中過程が違うだけだ】等という言葉を曲解して、他流他武道の基本に円空流の形だけを上乗せするような教え方をしても絶対に身につきません。

これは別に円空流に限った話ではなく、他流を併修する者にとってはどこの流派にも言える当たり前の事です。

また、【結局、実戦では何でもいい】と言うような指導者もいるみたいですが、確かに戦場では右足から出ようが左足から出ようが、流派の形通りの理合でなくても生き残れば勝ちでしょうが、

道場の稽古で円空流の形を教えている中で【結局、実戦では何でもいい】と指導者が言うのは無責任な誤魔化しに過ぎず「私はちゃんと稽古していないので教える事ができません。」と言っているのと同じで、流派の看板を背負っている指導者として恥ずべき言動です。

私は師家からは【古流の形に偶然の勝ちはない】と直接聞いていますので、円空流の形について質問されたのに【結局、実戦では何でもいい】というような教え方は円空流ではしてない事をこの場で明記しておきます。

そもそも独自性があるからこそ一流派として存在しているのに【結局、実戦では何でもいい】ではわざわざ円空流を習いに来る価値も形稽古をする意味もありません。こんな適当でいい加減な、人を馬鹿にした指導はないでしょう。

師範代以上の肩書きで流派の看板を背負って指導している以上、自分の指導した内容がそのまま円空流の技と見られてしまう事に責任を感じなければ指導者の資格はありません。


温故知新という言葉がありますが、原文を読むと


子曰、温故而知新、可以為師矣。



つまり【以って師と為るべし】と続きます。



自分が既に習って学びきったと思っているような事柄(故き)を、稽古を続ける事(温る)で、さらに新たな教えや気づきを得ること(知新)ができれば、人の師となれる(可以為師矣)



基本を軽んじて自身が稽古しないような指導者には人に教える資格はありません。


指導者は常に手本となれるように稽古に励まなければなりません。