先日、数か月ぶりに知人に会ったので少し立話をしました。
お互いの子どもの小学校時代から知っている20年来の知人です。
私 「皆さん、お元気ですか?」
知人「うん、皆元気よ。そろそろ娘たちは結婚を考えてるわ。息子さんはその後どう?」
私 「やれることをやりながらまだ治療を続けていますが、コロナにかからずに済んでます。」
知人「・・・。」
私 「・・・。」
この沈黙が妙に長い。
知人「息子さん、まだ治らないの?長いね。・・・。」
たしかに、長いのだけれど、
たしかにもう15年になる。
それでもその沈黙の長さは私の感覚とは少し違和感があって
実際の息子の治療状態は知人が想像しているほどのことでもなく。
その時その時で環境も治療内容も本人の感じ方も私の気持ちも進化していっている。
きっと息子が変化なく同じ症状でずっ~と治療だけを続けているイメージなのかもしれませんね。
その知人にとっては自分は一般的な生活で
私はそうではないのでしょうけれど
私にとっては息子の今までとこれからは「普通のこと」となっています。
体調を崩してからのほうが「一般的な生活」よりももう長い年月になっている。
私たちにとっては今の過ごし方が普通なのです。
思い返せば発症してからも
息子と私は周囲の人にこの状況を理解してもらえると思ったことはありません。
一緒に暮らしている夫にも理解できないのですから
どんなに説明しても無理な場合はあるので
その時間や労力は他へ使ってきました。
心配してくださる周りの方々には尋ねられるとできる限り状態を説明しますが
本当のところはわかってもらえないだろうなとわかっています。
「元気そうに見えるんだけどね。その診断大丈夫なの?」
と聞かれます。
だからと言って理解してくれない人が悪いとかそういうことではなく、
本当にわかってもらうのは難しいのです。
そういうものだ思ってきたので
望んでいたことは理解されることではなく
環境をどう過ごしやすくするかということでした。
15年前も今もこれからも
「一見すると健康そうな人」として過ごしています。
でもこれは年齢が若いから少数派の話で
あと15年もすれば『皆何かの疾患を持っている人』になってるのではとも思います。
ちょっと不便なことはあるけれど
これが普通
さまざまな疾患の方が
同じような想いをされていることが多いようなので
書いてみました。