[東北] 震災から始まった事 | ニゴロブナ子は里山(さと)に帰らせていただきます!
ずっとためらっていた携帯に今日、電話してみました。
震災からもうすぐ3ヶ月。
宮城県石巻市のお坊さん、樋口さん。
震災の二日前まで一緒に韓国を旅していた仲間でした。
もしも、繋がらなかったら、、、という不安と、
生きていらっしゃったとして石巻ならきっと混乱を極めているだろうと今日まで電話できなかったのですが。

生きていらっしゃいました。

震災の前日にも大きな地震があったそうです。
石巻の人々は津波を何度も経験して津波に警戒しているはずがあの大揺れにも関わらず逃げなかった人が沢山犠牲になったそうです。
被災者でありお坊さんであり今日までも苦難の日々であった事は想像に難くありません。
最近やっとアパートに移る事ができたそうです。

ああ、うれしいな。
よかったな。
震災後、ずっと胸にわだかまっていた暗い不安の元の一つが輝く鳥になってわぁっと飛び立ったような感動でした。

3月11日震災直後に津波の映像が世界に配信されるや海外の知人からfacebookを通じて「大丈夫か!」「インドの我が家にいつまでも居ていいから!」「韓国に帰化しろ~」など、沢山のメール、電話をもらいました。
揺れもなくほとんど変わりなく日常を過ごせている私が「ありがとう」「日本はまた立ち上がりますから」などなどまるで被災地を代表するかの返事をしている自分がだんだんバカに思えて来たものでした。
本当はこの言葉は私にではなく、まだまだ雪が積もるずっと北の地で混乱のまっただ中に要るあの人達に向けられたものなのに。

世界の人たちもなんとか力になろうと色々智恵を絞っている。
遠くても同じ国内にいて私は何が出来るだろう。

16年前の阪神大震災の時には大阪の職場の近くに即刻立ち上がった「外国人地震情報センター」で震災の情報や相談を外国人住民にその人の母語で対応する通訳ボランティアに参加しました。
今回翻訳や通訳などの同じような依頼はあったものの、インターネットの時代にあの時と同じ電話通訳のニーズがあるとは思えませんでした。
なぜか震災情報の外国語対応の電話相談事務所が滋賀県内に設置され、携帯電話での三者通話通訳の登録はしましたが、私は一度もその事務所に行く事もなく。
しばらくして閉鎖されるまで案の定一度も電話がかかってくる事はありませんでした。

震災2ヶ月目を福島の南相馬市で迎えました。
地元の仲間の百姓門田君がちょっと前に丸1週間ボランティアに東北に行って来て、
現地に約束した冷蔵庫を持って行くからと言うトラックに便乗させてもらう事になりました。
同じく仲間の木工職人青木君と3人の片道13時間、1泊3日の初めての東北トラックの旅でした。
新潟経由で福島に着いても内陸は震災の爪痕も比較的浅く、普段の町並みと変わりません。
ニゴロブナ子は里山(さと)に帰らせていただきます!-内陸ニゴロブナ子は里山(さと)に帰らせていただきます!-瓦礫
でも、ここは福島。
地震、津波。
それより眼に見えない放射能は空気のような存在です。
沿岸に出ると瓦礫の原が延々と広がります。
行ってみて何が一番印象的だったかと聞かれましたが
それは地震、津波の爪痕をこの目で見たと言う事以上に、、、

我らがナビゲーターの門田君の
地元滋賀で見た事もないような
イキイキと水を得た魚のような姿でした。

つづく。

そうそう、今日の京都新聞にこの私たちの福島行きのいきさつなど載ったみたいです。
カメラ京都新聞「湖国のヒマワリで笑顔咲け 福島で栗東の農家ら種まき」
注)たぶん、電子版は日が経つと記事削除になるとおもいます。。

ニゴロブナ子は里山(さと)に帰らせていただきます!-たぬき
南三陸町手前の道の駅の川辺に信楽タヌキ発見!いつからそこに!?