娘が子宮頸がん(HPV)ワクチン副反応に遭ったのは10年前の昨日、10月19日でした。
接種直後から痺れが出て、待合室に出るも、ドアが締め切らない内に「腕が痺れておかしいです」と、医師に伝えたのを今も覚えています。
帰宅したものの、悪化する一方で、翌朝一番に不調な娘をなんとか接種医のクリニックに連れて行きましたが、「うちでは手に負えません」と言われ、クリニックから近くの総合病院に予約をとってもらい、そのまま総合病院に行くと入院になったのです。クリニックの方で、「近くの総合病院に予約をしたので今すぐ行ってください」と言われ、そのまま総合病院に行くと入院になったのです(当日の状況を正しく書き直しました)。
何度も入院しました。
いくつもの病院を渡り歩きました。
今、診てもらっている主治医のいる病院は、厚労省が副反応を診るとして指定した指定病院ではありません。
医療不信にもなりましたが、親身になって下さる医師もまた、いらっしゃることに気づいて、病院を選ぶことがどれほど大事なのか分かりました。
新しい薬、新しいワクチンは2、3年様子を見て、その副作用報告や副作用にあった時の医療体制がどんな状況かを見て、考えるのが適切だと学びました。
自分しか自分を守れません。
子どもは家族にしか守れません。
娘にHPVワクチンを打たせてしまった後悔と同じように、コロナ禍の今、コロナワクチンを接種して後悔している人のツイートをいくつか見ました。
当然、そういった方々は、副反応でとても苦しんでいる方です。
また、家族に勧めてご家族が亡くなった方もおられるでしょう。
後悔は何度も波のように襲ってきます。
娘はというと、免疫吸着療法と硬膜外酸素注入療法と云う2つの治療法がとても合っていました。
ビタミンC点滴療法で、なくなった症状もありましたし、Bスポット治療もまた、娘を随分と良くしました。
治療法はいくつも選択して、根気よく病状を減らしていくしかなかったです。
まだ、ムズムズ足や疼痛、足裏が腫れるような後遺症などが残っていますが、随分と普通の生活ができるようになりました。
本当によかったと思っています。
中にはかなり良くなっていたのに、また悪化して生活に支障をきたしている方の話も聞きますので、油断せずに食事や環境を最善にした生活を続けて行こうと思っています。
10年は長いです。
10年、揃ってみんな年齢を重ねました。
私も近年、新たに病気が発覚し、薬を飲んでいます。現在、減薬中ですが、病気の症状は出ています。
コロナ禍で、私の主治医からは「ワクチン、どうする?」と受診のたびに言われていましたが、娘のことを話した上で「遺伝子組み換えワクチンは、娘の主治医から家族も禁忌にした方が良いと言われていて、接種しません」と丁寧にお話ししていました。
基礎疾患者は、優先的に接種を厚労省は促していました。
しかし、通院で私の主治医は再び「ワクチンどうしたかな?」と聞いてきました。割と最近のことです。
また、同じように説明すると
「そうだったね。思い出した。実は、もちろん接種はしても基本大丈夫なんだけど、僕の患者さんも割とワクチン接種後に今の病気が悪化しちゃった人が多くて。それだけは伝えておくので、良く考えてね」
と、衝撃発言でした。
やっぱり、新しい薬やワクチンは様子を見てからの方が良いと、改めて思ったのでした。
10年の歳月で失ったものはたくさんありましたが、得たものも多くありましたし、人のあたたかさと同時に冷たさも知りました。
私は、これからの自分の人生をどう歩いて行こうか、最近よく考えます。病気発覚により、更に外に出て仕事をすることが難しくなり、治療に専念しました。
病気発覚直前まで、実は半年間学校に通って、自分のスキルアップを図っていたところでの病気発覚でした。
うまく歩けなくなり、すぐに転ぶようになりました。
私の身長は170センチを超えています。そんな私が駅や道端で転ぶのは、衝撃も強く、難儀しました。主人と犬の散歩に出ても、歩調を合わせて歩くことができなくなったのです。
「先に歩いてて。追いつけないから」
そう言って、一緒に犬の散歩も出来なくなりました。
HPVワクチンの研究会があり、開催場所に向かう階段を登るのが辛くて、息も絶え絶えになり、休みながらでないと階段を上れなくなりました。
生活全般が廻らなくなり、今は病名も分かって薬で症状を抑えています。
今はある程度普通の生活ができるようになり、転ぶこともなくなりましたが、主人と歩調を合わせて早歩きすることは今もできません。
治療法が今のところ、まだ無いのです。
薬のせいで、色々とメンタルも弱くなり、人の言葉や態度に、傷ついたり悲しくなることも多々ありました。それが自分の中で、怒りとなって跳ね返ってきたりするのです。
でも、自分の病気に関しては、自分だから良いのです。家族がなっていたら、ずっと心配で、心も休まらなかったでしょう。でも、私だから良いのです。
受け入れて、楽観しています。そのくらいが良いのです。私の母は心配していて、迷惑をかけていますが。
私の人生の中で、この10年が一番大変な時期でした。
この10年を乗り越えて、後は残りの人生がより良くなるような気しかしません。それは私の願望かもしれませんが、ひとつの節目として、少し肩の荷を下ろして生きようと思います。
ツイッターも疲れて、気まぐれにしか呟かなくなりました。失った10年の時間は、あまりにも大きくて、私の44〜54歳の時間は、世の中の黒い闇の濃さで塗りつぶされているようです。
その闇を少しでも皆さんの目に届けられたのなら、私もブログを書いている意味があったと云うものです。
娘の件で、多くの方に手を差し伸べてもらいました。
私にもです。
助け合うことが、人を強くします。
私は割と人との付き合いが苦手なのですが、娘のことではそんなことも言えないほど、多くの方々の助けが必要でした。
節目の10年間、ありがとうございました。
ブログを辞める訳ではありませんが、この節目に書いておこうと思ったことを、ただつらつらと書きました。
本当に、長かったです。
終わりが見えないですから。
その終わりが見えたら、きっと私は喜びのあまりバターのように溶けてしまいそう。
凍っているすべてが、一気に春を迎えて溶け出すような気持ちになるでしょう。
そんな春を、待っています。