暗闇の中、男はただ一心不乱に駆け抜けた。静まった森の中、木々は月を隠すように鬱蒼と茂り、辺りは暗闇につつまれている。闇に溶け込む漆黒の髪は高く一つに結ばれ、時折、彼の焦りを現すかのように草の葉が髪をかすめてはカサリとゆれた。微かに響く草の音だけが、月明かりさえ届かない森の中をとてつもない速さで移動している。


(早く…)
 それだけが、彼の心を占めていた。


 早く…早く…



 ……神医を…。




月の狼と銀の印


1-1


「おかえりなさい、テジャン!」
 紅い髪をふわりとゆらしウンスは扉から入ってきた男を見た。「嬉しい、待っていた」と言葉以上に語る瞳が男の心を和ませ、知らず笑みが浮かぶ。男の整いすぎた顔は鋭い印象を与えがちだが、ウンスを見つめる瞳は暖かく柔らかさを感じさせた。

「ただいま戻りました。今日は何を?」
「今日も典醫寺で薬の調整と、それに研究も。チャン侍医先生の研究書もまだきちんと読んでいなかったから…」

 ウンスはつい数ヶ月前にタイムスリップを繰り返し、やっと高麗に戻ってきた。身の回りの慌ただしさも落ち着きようやく生活のペースが出来つつある。

 彼の人が、自分の生活の中にいることが未だに信じられないくらい幸せで。
 ————ずっと一緒にいられる。ただそれだけのことが奇跡のように感じた。

 自分をじっと見つめる視線に気づきウンスは首をかしげる。
「なに?」
「あなたは少し頑張り過ぎです。無理はなさらぬよう。今日のように私の帰りが遅い日には先に休まれて結構ですゆえ」
「ありがとう、でも大丈夫よ。ゆっくり研究してるから。それに…」
 その言葉はあなたにも言える事だわ。と返そうとしたが途中で遮られてしまった。
「いいから、今日はもうお休みください」
 そういってぐいぐいと布団に押し込まれる。穏やかな空気が二人を包み、二人でクスクスと笑い合う声はかすかに外まで届いていた。


 扉の外までヨンに付き従っていた副隊長チュンソクは、ゆっくりと踵をかえし、二人の邪魔をしないよう隊員のところへ戻る。

 ふ…と、副隊長の脳裏にあの日のことが蘇った。



 あの日、帰ってきたウンスを隊長はもちろん、近衛隊も心から喜んだ。医仙を知る部下達は、信じられないと驚きの瞳で見つめた後、隊長に視線を戻した。
 柔らかくウンスを見つめる瞳には驚きの色は見られず、そこにあったのはただ、愛しさと喜び。

 ああそうか。隊長はずっと信じていたのだ。必ず医仙は帰ってくると。

 誰もがそう理解できた。それまでは、悲恋——再び二人の縁が結ばれる事はないのだと、そう思っていた。

 二人を裂いたあの日————医仙の、いなくなった日。
 キ・チョルが天穴の前で、そして隊長は大きな木のそばで、黄色の花に埋もれるようにして倒れていた。一番に駆けつけたテマンと自分が発見した時には、既にキ・チョルの心臓は鼓動を刻む事を止めていた。急ぎ医療班を呼び、隊長を運ぼぶために抱えようとしたその時、瞼が微かにふるえた。

「……う…」
「隊長!? 聞こえますか?! 隊長!」

 ゆるゆると瞳が開いて自分を認識した後、体がきついのだろう。少し顔を歪ませながらゆっくりと腕を持ち上げ、手の中の瓶を見つめ…

「…ウンス…」

 そうつぶやくと手に持っていた瓶を顔に近づけ、その唇に押し当てた。そしてそのまま腕をだらりと下げ、再び意識を閉じた。

「隊長!」

 そうして急ぎ典醫寺に運ばれ治療を受けた後、隊長は驚異の回復力を見せた。
 驚く医院や隊員に対し「医仙が泣くゆえ…回復せぬわけにはいかぬ」とだけ話し、きょとんとする顔を見ては少し寂しそうに微笑んだ。「分からなくてよい」と、それ以上なにも語らなかった。

 それからの隊長は、あの地——天穴の地奪還に尽力を注ぎ、その力を遺憾なく発揮した。味方の犠牲を最小限に留め、隊員を守る姿勢は常から変わらなかったが、瞳に宿る強さは更に増していた。敵が、いや…味方である自分達でさえ畏怖を感じるほどに。

 そうして奪還した場所へ時間を見つけては出かけるようになった。医仙との縁を感じられる場所————。

 一度行くと何日も帰らない。その行動は新しい隊員らに不思議がられていたが…
 どうして止められるだろうか。二人の互いを想う気持ちは痛いほど知っていたのに。

 それなのに、なぜ医仙は隊長を残していってしまったのか。
 そう聞くことなど…できるはずがなかった。そうして、4年の月日がたった。


 ああ、あの時から隊長は、互いの縁が再び逢うことを信じて——縁の糸は繋がっていると——あの場所で待っていたのだ。

 幸せそうに微笑み合う二人…こんな風に笑う隊長を、その時4年ぶりに見た気がした。




 ————ぼんやりとそこまで思い出し、チュンソクが顔を上げると隊員らが二人の部屋を見上げながらひそひそと話している。微笑ましく思ってしまう自分はとりあえず棚に上げ、隊員達を蹴り上げて外に出した。


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