天使の寝言にご用心 (「眠れぬ夜は…」続編)
その日は朝から空気が重かった。
ウンスはチラリと自分の前で朝餉を食べる男を伺う。
「……ねえ」
「なんです?」
ただ黙々と飯を口に運んでおり、返事はするもののこちらを見ようともしない。
「なに怒ってるの?」
「…怒ってなどおりませぬ」
————じゃあなんなのよ、その態度は。
少なくとも、昨日寝るまでは普段通りだった。おかしいのは今朝からだ。
朝、いつもは疲れて(どうして疲れているかは言わずもがなだが)寝ているウンスに、優しく声をかけて笑顔を見せてくれる。おそらくは自分にしか見せないであろう溶けんばかりの緩んだ顔…間違いなく近衛隊が見ようものなら固まって動けなくなるだろう。「そろそろ起きてくだされ」と、そう言いつつ抱きしめるのだから起きるに起きれない。髪を撫で、身体をいたわってくれて…という朝だったはずだ。
それなのに今朝ウンスが起きた時には、ヨンは既に着替えを終えている状態だった。
いつもギリギリまで一緒に布団の中にいるのだから、不思議に思うのが普通だろう。何か用事で急いでいるのか訪ねてみても、特にそんなものはないと言う。
昨晩まで普通で、起きた時にそうなっていたのだから、原因はおそらく自分でしかないのだろう。だが心当たりなど全くない。
自覚があれば反省するもするが、心当たりもないのに怒られてはたまらない。
ふつふつと込み上げてくる悲しみ、もとい、怒りを抑えて訪ねる。
「理由を教えてくれない?」
「怒ってなどおりませぬと申している」
————我慢よウンス。大人になるのよ。
「じゃあ、なにか嫌なことでもあった?それとも今日あるの?」
そう訪ねると、ヨンはウンスを見て一瞬口を開きかけた。だが、顔を背けると「なにも」と言ってまた沈黙が続く。
そのまま朝餉を終えて「行って参ります」というとさっさと扉から出て行ってしまった。
————何なのよ、一体。私が何かしたって言う訳!?
今から仕事なのだからと抑えていたが、帰ってきたらとっちめてやる!と意気込んで、ウンスも自分の朝餉をかきこんだ。
部屋を出たヨンは、思わずしゃがみ込んだ。
————何をしておるのだ、俺は。
まるで子供の怒り方、いや、拗ね方だ。情けなさすぎて足の力が抜ける。
そんな自分を不思議そうに見る近衛隊員に気づいて、慌てて立ち上がり追い払う。
副隊長のチュンソクなどは「どこか具合でも?」と本気で心配してくるのだから、余計に落ち込む。
「なんでもない。ただ————」
「ただ?」
「自分に呆れておるだけだ」
意味が分からないといった視線を向けられたが、それを無視して警備の指示を出した。
誰もいなくなり、はあとため息をついてまたしゃがみ込む。
————ただ一言、聞けばすむ話ではないか。
そう、訪ねればすむことなのだ。気になっていることがあると。聞きたいことがあると。
ヨンはポツリとつぶやく。
「一体…誰なのです?」
たった、これだけ。この一言が、どうしても聞けなかったのだ。
昨晩、ヨンは夜中に目が覚めてしまった。夜明けまでにはまだまだ時間があるが、一旦覚めてしまった眠りはどうも遠くに行ってしまったようだ。
隣では、すうすうと心地良さそうに眠るウンスがいて、ヨンの目は優しく細められた。
「ん…」
小さい身じろぎとともに口から漏れた声は甘くて、先刻の熱が蘇りつい手を出しそうになる。
だが、少しは手加減してと言われている身としては、今は我慢するしかない。
ヨン自身はこれでも十分我慢しているつもりなのだが、ウンスにとってはそうではないらしい。曰く「あなたとは体力が違うのよ」だそうだ。
最近では叔母までもが「お前は加減というものを知らぬのか」だなどと小言を言ってくる。
そんなことをぼんやりと考えていると、隣でウンスがクスリと笑った。何か楽しい夢でも見ているのだろう。月明かりで見えるウンスの顔は緩やかに微笑んでいて、嬉しそうにしている。
こんな風に安心して眠るウンスを見るだけで、ひどく心が落ち着く。ウンスの夢の中に、自分がいればいいと思ってしまうのは独占欲が強すぎるだろうか……。
緩やかな時間が流れて、少しずつ眠気が帰ってくるのを感じ、ヨンが瞳を閉じようとしたその時————
眠気を一瞬で吹き飛ばす台詞が、ウンスの口から漏れた。
「ん……ドンウ、大好き」
思わずガバリと布団から上半身を起こして、ウンスの顔を見つめる。
————今…なんと?
今すぐにでも起こして問いただしたい衝動に駆られる。ドンウとは一体誰なのだ、と。
ウンスの身の回りにそんな名の者はいなかったはずだ。
だが、ふとヨンは気づく。ウンスが帰ってくるまでの時間、自分の知らない空白がある。
綺麗な容姿に少しばかり強気だが優しい性格、真っすぐで芯の強い女人…心惹かれない男がいないわけがない。そんな男達の中に、もしかしたらウンスが気を許した者がいるのではないか…。ドンウとはその男なのではないか…?
そう考えると、途端に問いたいという気持ちと相反するものが生じてきた。
今は自分の側にいるのだから良い…などという寛容な心からではない。
ウンスの口から「是」と言われてしまうことが……怖いのだ。
————何をも畏れぬ大護軍などと、一体誰が言っておったか。
ヨンは自嘲気味に口を歪ませた。
一度思考が沈んでしまうと、悪い方向にばかり考えてしまう。「大好き」という言葉が何よりもその原因だ。ウンスを信じていない訳ではないのに、もしかしたら…と。
例え問うてみて、それが「是」だとしても、もう自分はウンスを離すことなどできないのだ。
ほんの一時でも、ウンスが心を預けた者がいるとしたら、その相手を殺してやりたいと思ってしまうほどに自分は溺れている。
この黒い感情そのままにぶつけてしまえば、きっとウンスの身体を壊してしまう。
彼女を、その髪一本でさえ…傷つけるものは許せないと思っているのに、その自分が一番今は危険ではないか。
更に深く思考が沈んでいこうとしたその時。
「ん……チェ……ヨン」
ウンスの口から漏れる音にはっとする。
————なにを馬鹿なことを
ヨンは思考を振り切るように軽く頭を振った。
————考え過ぎだ。明日の朝尋ねればばよいのだ。
きっと、なんてこともない答えが返ってくるはずだ。と、なんとかそう思うことにして、だが一睡もできないまま朝を迎えた。
そうして今朝、問うと決めたのにもかかわらず、いざとなるとそうもできないまま…逃げるように部屋を出てきてしまった。
はあ…とヨンは深いため息をついた。
しゃがみ込んでいた足に力を入れて立ち上がる。仕事をする間に、なんとか頭を冷やさなくてはならない。
帰ったらおそらくウンスの怒りが待っていることだろう。その原因を作ったのは自分なのだから、甘んじて受けねばなるまい。
それにしても、このように自分を悩ませるドンウとやらが憎たらしい。その上、ウンスの心を一時でも得たのであれば尚更、殺しても殺し足りないくらいだ。
呆れの後に沸いてくるのは、ドンウという知りもしない男への怒り。
そう考えていると、遠くからヨンを呼ぶ声が聞こえてきた。
そうして近づいてきた部下は、ヨンの顔を見るなり固まってしまう。
————?
「何事だ」
「た…隊長?」
「何事だと聞いておる」
そう尋ねると、怯えるように口早に要件を述べて逃げるようにして行ってしまった。
訝しく思ったが、別段何事もないようなので放っておく。
————今日は仕事が見に入りそうもない。
幸い、ここ数日は穏やかな日が続いている。普段通りの警備で問題はないだろう。
今しがた部下が伝えてきた用事を済ますため、重い思考を振り切るようにしてヨンは足を踏み出した。
夜になって予想通り散々ウンスから叱られ、事の顛末を聞いたウンスにヨンが大笑いされるまで、あと数刻————————。
終
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その日は朝から空気が重かった。
ウンスはチラリと自分の前で朝餉を食べる男を伺う。
「……ねえ」
「なんです?」
ただ黙々と飯を口に運んでおり、返事はするもののこちらを見ようともしない。
「なに怒ってるの?」
「…怒ってなどおりませぬ」
————じゃあなんなのよ、その態度は。
少なくとも、昨日寝るまでは普段通りだった。おかしいのは今朝からだ。
朝、いつもは疲れて(どうして疲れているかは言わずもがなだが)寝ているウンスに、優しく声をかけて笑顔を見せてくれる。おそらくは自分にしか見せないであろう溶けんばかりの緩んだ顔…間違いなく近衛隊が見ようものなら固まって動けなくなるだろう。「そろそろ起きてくだされ」と、そう言いつつ抱きしめるのだから起きるに起きれない。髪を撫で、身体をいたわってくれて…という朝だったはずだ。
それなのに今朝ウンスが起きた時には、ヨンは既に着替えを終えている状態だった。
いつもギリギリまで一緒に布団の中にいるのだから、不思議に思うのが普通だろう。何か用事で急いでいるのか訪ねてみても、特にそんなものはないと言う。
昨晩まで普通で、起きた時にそうなっていたのだから、原因はおそらく自分でしかないのだろう。だが心当たりなど全くない。
自覚があれば反省するもするが、心当たりもないのに怒られてはたまらない。
ふつふつと込み上げてくる悲しみ、もとい、怒りを抑えて訪ねる。
「理由を教えてくれない?」
「怒ってなどおりませぬと申している」
————我慢よウンス。大人になるのよ。
「じゃあ、なにか嫌なことでもあった?それとも今日あるの?」
そう訪ねると、ヨンはウンスを見て一瞬口を開きかけた。だが、顔を背けると「なにも」と言ってまた沈黙が続く。
そのまま朝餉を終えて「行って参ります」というとさっさと扉から出て行ってしまった。
————何なのよ、一体。私が何かしたって言う訳!?
今から仕事なのだからと抑えていたが、帰ってきたらとっちめてやる!と意気込んで、ウンスも自分の朝餉をかきこんだ。
部屋を出たヨンは、思わずしゃがみ込んだ。
————何をしておるのだ、俺は。
まるで子供の怒り方、いや、拗ね方だ。情けなさすぎて足の力が抜ける。
そんな自分を不思議そうに見る近衛隊員に気づいて、慌てて立ち上がり追い払う。
副隊長のチュンソクなどは「どこか具合でも?」と本気で心配してくるのだから、余計に落ち込む。
「なんでもない。ただ————」
「ただ?」
「自分に呆れておるだけだ」
意味が分からないといった視線を向けられたが、それを無視して警備の指示を出した。
誰もいなくなり、はあとため息をついてまたしゃがみ込む。
————ただ一言、聞けばすむ話ではないか。
そう、訪ねればすむことなのだ。気になっていることがあると。聞きたいことがあると。
ヨンはポツリとつぶやく。
「一体…誰なのです?」
たった、これだけ。この一言が、どうしても聞けなかったのだ。
昨晩、ヨンは夜中に目が覚めてしまった。夜明けまでにはまだまだ時間があるが、一旦覚めてしまった眠りはどうも遠くに行ってしまったようだ。
隣では、すうすうと心地良さそうに眠るウンスがいて、ヨンの目は優しく細められた。
「ん…」
小さい身じろぎとともに口から漏れた声は甘くて、先刻の熱が蘇りつい手を出しそうになる。
だが、少しは手加減してと言われている身としては、今は我慢するしかない。
ヨン自身はこれでも十分我慢しているつもりなのだが、ウンスにとってはそうではないらしい。曰く「あなたとは体力が違うのよ」だそうだ。
最近では叔母までもが「お前は加減というものを知らぬのか」だなどと小言を言ってくる。
そんなことをぼんやりと考えていると、隣でウンスがクスリと笑った。何か楽しい夢でも見ているのだろう。月明かりで見えるウンスの顔は緩やかに微笑んでいて、嬉しそうにしている。
こんな風に安心して眠るウンスを見るだけで、ひどく心が落ち着く。ウンスの夢の中に、自分がいればいいと思ってしまうのは独占欲が強すぎるだろうか……。
緩やかな時間が流れて、少しずつ眠気が帰ってくるのを感じ、ヨンが瞳を閉じようとしたその時————
眠気を一瞬で吹き飛ばす台詞が、ウンスの口から漏れた。
「ん……ドンウ、大好き」
思わずガバリと布団から上半身を起こして、ウンスの顔を見つめる。
————今…なんと?
今すぐにでも起こして問いただしたい衝動に駆られる。ドンウとは一体誰なのだ、と。
ウンスの身の回りにそんな名の者はいなかったはずだ。
だが、ふとヨンは気づく。ウンスが帰ってくるまでの時間、自分の知らない空白がある。
綺麗な容姿に少しばかり強気だが優しい性格、真っすぐで芯の強い女人…心惹かれない男がいないわけがない。そんな男達の中に、もしかしたらウンスが気を許した者がいるのではないか…。ドンウとはその男なのではないか…?
そう考えると、途端に問いたいという気持ちと相反するものが生じてきた。
今は自分の側にいるのだから良い…などという寛容な心からではない。
ウンスの口から「是」と言われてしまうことが……怖いのだ。
————何をも畏れぬ大護軍などと、一体誰が言っておったか。
ヨンは自嘲気味に口を歪ませた。
一度思考が沈んでしまうと、悪い方向にばかり考えてしまう。「大好き」という言葉が何よりもその原因だ。ウンスを信じていない訳ではないのに、もしかしたら…と。
例え問うてみて、それが「是」だとしても、もう自分はウンスを離すことなどできないのだ。
ほんの一時でも、ウンスが心を預けた者がいるとしたら、その相手を殺してやりたいと思ってしまうほどに自分は溺れている。
この黒い感情そのままにぶつけてしまえば、きっとウンスの身体を壊してしまう。
彼女を、その髪一本でさえ…傷つけるものは許せないと思っているのに、その自分が一番今は危険ではないか。
更に深く思考が沈んでいこうとしたその時。
「ん……チェ……ヨン」
ウンスの口から漏れる音にはっとする。
————なにを馬鹿なことを
ヨンは思考を振り切るように軽く頭を振った。
————考え過ぎだ。明日の朝尋ねればばよいのだ。
きっと、なんてこともない答えが返ってくるはずだ。と、なんとかそう思うことにして、だが一睡もできないまま朝を迎えた。
そうして今朝、問うと決めたのにもかかわらず、いざとなるとそうもできないまま…逃げるように部屋を出てきてしまった。
はあ…とヨンは深いため息をついた。
しゃがみ込んでいた足に力を入れて立ち上がる。仕事をする間に、なんとか頭を冷やさなくてはならない。
帰ったらおそらくウンスの怒りが待っていることだろう。その原因を作ったのは自分なのだから、甘んじて受けねばなるまい。
それにしても、このように自分を悩ませるドンウとやらが憎たらしい。その上、ウンスの心を一時でも得たのであれば尚更、殺しても殺し足りないくらいだ。
呆れの後に沸いてくるのは、ドンウという知りもしない男への怒り。
そう考えていると、遠くからヨンを呼ぶ声が聞こえてきた。
そうして近づいてきた部下は、ヨンの顔を見るなり固まってしまう。
————?
「何事だ」
「た…隊長?」
「何事だと聞いておる」
そう尋ねると、怯えるように口早に要件を述べて逃げるようにして行ってしまった。
訝しく思ったが、別段何事もないようなので放っておく。
————今日は仕事が見に入りそうもない。
幸い、ここ数日は穏やかな日が続いている。普段通りの警備で問題はないだろう。
今しがた部下が伝えてきた用事を済ますため、重い思考を振り切るようにしてヨンは足を踏み出した。
夜になって予想通り散々ウンスから叱られ、事の顛末を聞いたウンスにヨンが大笑いされるまで、あと数刻————————。
終
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