巡礼者のブログ

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爆睡。友人の電話で目が覚める。で、FaceTime呑み会。きょうはマーラーの八番とか、吹奏楽コンクールとか沢山聴く。吹奏楽コンクールは生中継だった。いろいろ考えさせられるけど、昔と違って、レヴェルが物凄く高い。


その中で、音楽を表現しているところもあれば、ハイテクだけど、音楽とは遠いところでやってる、とか、多分、指導者によって、そういう違いが出るんだと思う。七つのヴェール、とかやたら多いけど、全然リヒャルト的ではないところと、高校生には教えられる限界?ってところで、一応はリヒャルト・シュトラウスには聴こえないこともない、という位に、二分化されてる。コンクールはコンクールで、必ずしも音楽的ではなくてもいい?という話なのかもしれない。それはそれで悲しいけど。ある意味では、音楽というより、体育会?という話ではある?んだろうけど。


お酒さん買って来なかったんで、切れてるけど、爆睡の割?には?結構なものを聴いたなー、という体感。


で、電話の後は、またタロットとオラクルカードの復習をしたりする。自分が拝見しているところだと、うーん、やっぱり当たってると考えざるを得ないとか、そういう方の動画があるので、少し先のこととか、作業を考える。


モーニングページは、一日か、再開しているが、あんまりちゃんと書けてない、とか、もう一度、モーニングページの概念を最初からやり直しとかあって、難しいと言えばそうである。ペンも、前に合ってたと思うものが違ってたり、ペンよりノートの紙質だろ、という結論になったり。モーニングページは、紙質大事だよなー、と。この紙ならクルトガダイブでも大丈夫だな、というのもあるのだが、今のところは、万年筆か水性ボールペンでやってる。万年筆は、どんな紙であろうが、筆は適応しているので、万年筆は楽でいい。


まあ、何もしてない、という事で、それはそれで悪くはないのだが、友人の一人が回復したので、それは喜ばしい。というか、周囲で、自分だけが、持病とは別だが、具合悪くなっていないことの方が不気味だったりする。とは言え、先生のことがあるから、自分も調子は悪いのではあるが。それを助けてくれるのは、存在とお酒さんだったりする。


これからもう一回、ジュリア・キャメロンのモーニングページ関係の本をタラタラ読み直して、また明日からの生活を考える。モーニングページを縦書きで書いたら、ちょっと違う展開になるのか?というのは考える。売ってるノートの殆どは横書きではあるが。ノートを横にして、縦書きでしかも、左から右に書いていったら、ちょっと違うんではないか?とか思う。横書きに、ある種の鬱憤の理由があるのかも知れない?とか。


まあ、毎朝のことであるから、地味にやっていく、というのが、健全ではある。いずれにしても、タラタラでいい、ということで。



調子悪い、というか、気が重いというか。何故か五時過ぎに目覚めてしまい、スーパームーンとか、月の始まりの区切りとか、いろんな意味で、朝、何かをしないといけないと思った。本来の意味ではない?が、もう一度モーニングページを始めてみる。モーニングページを薦める動画も再度観てみる。つまらないことをやっているうちに時間が経ってしまう。


具合悪い基調は、先生のことにあるのだが、周囲は気分や感情を越えてしまい、身体症状になっている。自分なぞ、まだマシ?である。全てが先生のこと、とは思えないのではあるが、こんなに自分の周囲で具合悪い人が出たのは、これまで経験がない。


ランチに行って、とか考えてみたのだが、お肉さんも、カレーさんも食いたいという根性がなくなっていて、近所のお店の前まで行ったのだが、「違う」というからださんの反応で、他のお店さんに行っても同じことだろう、という体感。で、全部、きょうは諦めた。どこに行っても、具合悪い、という反応が出るのは見えている。


その体感に対して、空は白々しいほどに秋晴れというか、iPhoneで出る蒼。それを撮るという気持ちも起こらず、ああ、こういう日はこうだ、とある種の達観で帰った。


あとは友人たちへの連絡と、施設や保健相談所への相談。どうも具合が悪いのは、自分の周囲だけではないらしい。一般的にある、最近の傾向らしい。


全部放り投げて、存在と呑んで、休んでいる。食事もする気が起きない。食えない訳ではない筈なのだが、からださんは、食ったらどうにかなる、という発想になっていない。食ってもどうにもならない。


世間には、結構、無神経な人というのはいて、こういう時こそ、食え!という話はある。だいたい誰がそう言うかは理解しているのだが、そういう本人は具合悪くなることはなくて、周囲の人が、時には自殺したりする。無神経と自殺の、「役割分担」というか、そういう人は、その構造に自覚はなくて、周囲の端の方にいる自分などは、その構造を理解してしまう、とか、そういう残虐なことは、実は世間では結構ある。役割分担の恐ろしさである。多分、その構造を理解していない人からすると、現実を否認するか、分からないまま、今生を終える、ということなのだろう。もちろん、他の細かいパターンもある。


その様なストレスを一手に引き受ける役割、というのは、家族や組織だけではなくて、個人的な関係にあっても、それは現出されることがある。特に、聴き役は厳しいものがある。


なぜ、聴き役が厳しいのか?というと、精神科医の様に、心の汚物を引き受ける、というのがある。だが、それは、患者とプロの臨床家の間だけに起こるものではなく、治療者と患者との関係性を心得ていると、いつの間にか、患者が臨床家化⁇することは、実はあって、一般の周囲の人の「聴かされ屋」となってしまうことがあり、社会的?社会的に地位がある「患者」がやって来てしまうことがある。


これは恐ろしいもので、治療を受けている身である者を、社会的に地位がありながら、困っている、という人たちが、「患者をカウンセラーとする」という事はあるのである。


患者をやっている、というのは、ある意味で、境界的、あるいは幾つかの世界の境界に立つ者、として機能したり、機能した上で自殺する、というのはある。その様な存在に頼る「社会的に地位のある人たち」というのは、自殺の原因が自分にある、という自覚はない。患者に甘える社会的に地位のある人というのは、結構いる。しかも、そうした人たちの共通点として、「自分が加害者であり、その結果、自殺者まで出た」という事実を認めない、否認する、という精神構造になっているので、バカを見る、あるいは、それまでの治療の意味を破壊していることに無自覚、という点で、このパターンの「社会的地位にある人たち」というのは共通している。


しかも、そうした、「社会的に地位にある人たち」というのは、恩義を感じてなのか?ご馳走をする、という傾向ごある。それは立派な上から目線であり、社会的地位にある人たちは、自分は、「この人に対する患者である」という自覚はないし、治療の成果を破壊している、という発想なぞ、まるでない。ご馳走もなんも要らないから、治療の邪魔をするな!と言いたいのであるが、その様な社会的地位にある人は、「ご馳走したから、釣り合いは取れている」と、勝手に思い込んでいるのである。その様な人たちは、かなり存在する。


問題は、では、なぜ?その様な社会的地位にある人たちが、「患者=境界的存在」に近寄る?便利屋とする?のかといえば、理由は簡単である。世間的にマトモな人たちに相談すれば、「自分の社会的な地位がヤバい」と、意識的にも、無意識的にも思っているからである。そういう自覚があるなら、プロの臨床家〜コンサルタント系も含む〜に、公式的に相談すればいいのである。


しかし、その根性がないから、境界的な存在=患者、に「相談なんだけど」と案件を持ち込むのである。その釣り合いは、社会的地位のある側からすれば、「ご馳走をすれば」釣り合いが取れる、という、不思議なバランス感覚=傲慢さ、によって、「境界的存在=患者=隠れた治療者」を搾取する。


自分の幾つかの体験談からすると、およそ、この世の仕組みというのは、この様なものであり、「自分は相談する側として、謙虚でなければ」という、倫理的な自覚が、この様な社会的地位のある人間には欠落している。正式な相談と治療を受ける根性と切実さが欠落しているから、「患者=境界的存在」に対して、ご馳走でもしておけば、本人は安泰、ということなのだろう。尤も、こういう構造に対して、本人達に自覚があるか?となると、それは無い、と断言しておく。


自分の場合の治り方の方向としては、シャーマンの能力の獲得、であって、シャドウワークとして、その能力は、ある程度あるのであるが、その意味では、上記の如き相談者「=相談者であることを否認し、周囲の公式である社会に対して、困っている姿を見られると恥である」と思っている人に対しては、その無責任性を正した上で、それ相応の金銭や対価を要求すべきである。そして、何より、その際は、「治療契約」として、言いつけやアドバイスを守ることを条件としないと、相手たちは、幾らでも搾取してくる。


その様な、「社会的地位にある」人たちからは、覚悟と責任を要求すべきであり、自分自身に対する正当な対価を要求することがなければ、そうした、「世間からすると、社会的地位がありながら」「バレない様に、境界的存在に対して」「秘密に相談する」というパターンを断たねばならない。そうしないと、その社会的地位と収入の余裕を背景に、そうした人たちは、「幾らでも甘えてくる」からである。これを断じて拒否しなければならない。


こういう構造が、実は、自殺、自死に繋がっている、なぞとは、甘えている側は自覚しない。人としての人情の機敏に於いて、そうした社会的強者というのは、単に鈍感なのではなく、「現実を認めない=否認する」というのは、実は依存症系の病者さんたちと、何もかわりはない。たまたま、社会的強者なのか、弱者なのか、という「力のバランスで」人の生死は決定されてしまう。自分は、そういう人たちを幾人も知っている。


社会的強者は、自分が「困っている患者である」ことを認めない。しかも、対価を支払わない。要らぬご馳走なぞ、自分の寿命を縮めるだけのことである。そうされて、死んでいった人たちもいる。そして、社会的強者は、自らの「立場を作る」のである。シャドウワーク、ワーカーが、どれほどその様な人たちに立場を「作らせてあげて」、下手をすると、自殺しているのか?家族にあっても、これは同様である。


社会的強者は、「これくらいでいいだろ」と、勝手に相場を決めるが、それは、自分の場合、どれほどの犠牲を払って対応しているのか、自分の経験と実感からは、その様にしか見えない。


「相談だけど」と、言われたら、何で自分のところにその案件が来るのか?そして、その意味がどう言う意味であるのかを明白にして、決して安請け合いはしないことである。


そして、その「心的汚物」をぶつけられることに対しての、対価を要求すべきである。


命懸けでやっている心的作業に、何故対価が発生しないのか、そのこと自体が疑問である。


それ以前に、そういう案件があったら、特にその様な人に社会的地位と収入がある場合は、案件だけではなく、その人物自体を拒否すべきである。


そうしないと、我々は、殺される。


これは、あくまでも、事実に関する分析と体験であり、これは優れた臨床家の知見について語ったことではない。


つまり、これは、自分の命を賭けた、闘いであった、と。


しかし、一度たりとも会う事もなく、犠牲になられた方の事も知っている。


ただ、これは、複数の関係性で起こったことであり、犠牲になられた方も、複数である、という事である。


そこに、もう一人、自分も、あなたも、犠牲者になってはいけないのである。


対価もなく、案件を持ち込んで、ご馳走をする様な、傲慢な社会的地位にある人たちに対して、警戒しないと、更なる犠牲者が出る、という話である。


これは事実であり、真実である。


安易に、境界的存在に対して案件を持ち込む、社会的地位にある様な人たちに対しては、厳しく対応すべきであると思う。


ましてや、自分が治療を受けている、というだけで、自分がどうなるのか、その事自体が危険なのである。


自分の都合で動いている社会的強者に、共感するつもりはない。


そういう人たちは、他の所で、勝手に愛されていれば良い。


そうした立場づくりに加担する必要はないのである。


勝手にやっていればいい。


シャドウワーカーは、その様にして搾取されるのである。



超爆睡。友人の電話で、インフルエンザになった、って話で、別の友人は流行り病と検査ではされて、後輩は風邪。自分だけ馬鹿だから長年風邪とか少ないのか?インフルエンザになったことないし。ガキの頃は風邪よくあったが、若い頃は月に一度四十度の熱を出してた、って何だったのか?最近は熱は熱中症と熱中症もどきでしか出してないのは何故なのか?


ということで、おくやみの会は延期。超爆睡になったのは、スーパームーンとかそっちからなのか?王座戦途中からしか観れないし。やっぱり自分は永瀬将棋が一番怖い。努力すれば、勝つ、負けなければいい、って思想は怖い。


きょう、永瀬さんの怖いのは、番外の昼食と夕食、おんなじ陣屋カレー食ってたこと。藤井さんがそれを知っているのかは別として、昼夜フルで食って、長い闘いに備える、って、気持ち的に永瀬さん勝ってるよなー、と。で、しかも後手番で一局目を勝利、って、永瀬さん、防衛して、藤井八冠はナシ、ってことになるのかもしれない。しかも、永瀬さん、苦手な和服着てきたし、苦手を克服して、メシも気合い勝ちしてるし、将棋は藤井さんの一番の表芸の角換わりを後手番で粉砕したのだから、藤井さんの八冠、ないかも。


これで王座戦、面白くなってきた。


それにしても、八月を何とか生き残って、感謝。


生き残って、あすは存在と何か普段食べてないものを食べるとか。普段食べてない、って、丸亀製麺にいって妙な組み合わせで注文する?とか?お肉さん食ってないから、ひさびさにお肉さん系のランチ食う?とか。別に高いものを食いたいという訳ではないが、毎日おんなじものばっかりで、存在に悪い、と。


ただ、きょうは陣屋のカレーさん見てたから、カレーさんもいいのかも知れない。近所のランチのカレーさん、ナンはおかわり自由だし、お味が良いし。昔のサイゼリヤのランチのキーマカレーも美味かったよなー、と。お肉さん高くて、最近、はかせなべの超手抜きカレーとか野菜スープとか作ってないし。気温が下がった頃に、根性でお肉さん買って、カレーさんか野菜スープさんをやれるといい。


都内も夜はかなり気温は普通になってきて、秋の虫さんたちが聞こえる、この数日。


カレー、神保町に出て、エチオピア、とか?そこまで贅沢はしないけど、最近、デパートの食堂ってどうなってるのか?陣屋のカレーさんを見ると、何となく、デパートのカレーさんってどうだっけ?とは思う。松屋さんの初代のトマトカレーも美味かったよなー、とか。きょうは陣屋さんのカレーで洗脳されてる。カレー食いたい、って。あすは一日だし、丸亀製麺に二度行って楽しむ?とか、極貧には許される楽しみとしては悪くはないのかもしれない。


陣屋さんのカレー見て、カレー食いたがるって、かなりの栄養失調状態なのかもしれない。


存在は、カレーさんでなくて、ランチで、お肉は食べようと言う。丸亀製麺は夕方でいいよ、と。存在がそう言うんだから、そうだなー、と。トマトさんあるから、朝にトマトカレーさん作るとか、そういう根性がない。カレー粉さんもない。ルウがまだ生きてるかどうか?でトマトカレーさん作るとか?ルウ、見たら、賞味期限切れてる。無水トマトカレーさんとかやりたいよなー。


超爆睡と、陣屋さんのカレーを永瀬さんが連チャンで食うとか見てると、何か食いたくなるのかもしれない。ある意味では原初的で本質的な話ではある。