友人の電話で目が覚める。それまで悪夢を見ていた。なんもしてない。
きのう、夜に、存在と話して、一緒にトーシャ・シルバーを読んでいたのだが、トーシャ・シルバーが言う様に、神、って言葉を使うのはどうか?と。ましてや宗教トラウマとかある人は困るだろうし。あるいは、出身の地域に余りにも普通に神?が根付いていて、他の感覚の神?を感じたいとするとどうなるのか?とか。
結果は、自分の場合は、いのち、がいちばんいい、と。コスモゾーンも悪くないのだが、いのち、とは話せるし、外部とか内部とか言わなくていい。コスモゾーンもそうであるにしても、いのち、の方が自然な言葉?というか。
で、しばらく、存在に、いのちと話しているのを聴いてもらっていたのだが、存在からすると、そのことが凄すぎて、と言う。そのことで、存在と乖離が生まれるのは怖いのであるが、結果、存在としても納得がいったそうだ。
とにかく存在を大切になさい、というのが、いのち、からの話で、いのち、と、存在を基準にすれば、何が本当にいのち、と、存在に直結しているか、あるいは、お前の中にあるいのち、に語りかけるものだけを残しなさい、と、いのちは言う。なんか、すっきりした。
トーシャ・シルバーの本をそのまま使うかは別として、いのちと、それなりの時間話したのは久しぶり。トーシャ・シルバーの本で、神ではない言葉で言うなら、全ての源、というのが合っているのだろう。それなら、コスモゾーンの方が自分には合う?のではあるが。まあ、便宜的?であるにしても、いのち、は自分には悪くないと思う。いのち、でダメ?な時は、コスモゾーンに聴いてみる?ということになるか?別におんなじなのではあるが。全ての源、にしても。
友人とFaceTime呑み会になって、先生の追悼の前に、食い物さんとお酒さんはどうするか?という問題がある。少なくとも自分たちにとっては問題だ。もちろん、ヤニが吸えるかどうか?というのもそうである。先生の先生にしても、ピアノの上はヤニの灰だらけ、というのもあって、やっぱりヤニは大切なのである。
今もお酒さん呑んで、外でヤニも吸ってる。
トーシャ・シルバー、若い頃、相当、からださんもやられてる時期があるみたいだけど、自分とはちょっと違う感じがする。自分の方が、まだ護られてる感じがあるんだと思う。それと、いま読んでいる限りでは、お祈りはするけど、自分みたいに話したり、とかはしないみたい。自分の場合は、話すことで、なるほど、と思うことが多いのだが、トーシャ・シルバーは、お祈り系?なので、体質的には、あるいは経験的にも、神との対話のウォルシュさんの方が近い?のだと思う。
でも、それだったら、もっと自分は自分が自由にしていいのに、と思うのだが、そこは、自分は根性がない?足りない?ってことだと思う。
とは言え、存在との暮らしがあるから、もっと自由にやりなよー、というのが、存在の言い方である。
さっき、ひさびさに、オケコンを聴いて、なんでこんなに苦みばしった曲想になるんだろう?と、バルトークの気持ちとか考えていたのだが、これ書いたから、責められる、とかって、どうなのか?と。もっと暗い、辛いの書いたら評価されるのか?って。
自分の場合、評価とかどうでもいいので、才能がある人たちみたいに責められることはないのだが、これだけのものを書いて、しかも頼まれて書いて、そういう事を言う人たちのことで、具合悪くして、とか、って、他人のことながら、やってらんない。
まあ、才能ある人だと、ヘンに、周囲から勝手に期待されて、期待した方が、そっちの意図とは違うものを作ると、責める、って、それだけの話かも知れないけど、他人は勝手に期待するんだなー、と。そういうのを、無礼、とか、礼儀知らず、って言うのかも知れないが。
自分は勝手に自己展開してるだけだから、変な期待をされないでいいのだが。
まあ、みんな勝手に自分の都合、自分の期待、ってことで、あんまり他人に期待しなくても、それぞれが勝手にやって行ける社会、というのが望ましいのだと思う。
なんか、ヘンな期待されると、お金さん取って、カウンセリングするとか、そっちの方が後腐れがなくて良いのかも知れない?とか、期待されるより、自分には合わない、と言ってもらった方が気楽、とか思ってしまうことはある。
いろんな関係性ってあるけど、期待させない関係性、って、実は大事かもね、って思うことは、結構ある。