ブレサリアンとか、不食、というテーマを追いかけていたら、不思議な結果に行き着いた。それは、「仙道」と結びつくのである。
別に、思想的にブレサリアンとか、不食、というテーマを追っている訳ではない。実生活の防衛の手段として、可能性のある方法と判断したに過ぎない。
そんな訳で、楽しくて不食、という在り方を求めている訳ではない。生きるために、考えているだけである。
でも、それではつまらない、というところに、仙道があった。これは面白いかもしれない。
ブレサリアンと、仙道が繋がるのは、プラーナ、あるいは気、を支えとして生きる、という考え方である。そのため、不食、から、仙道に繋がったのだろう。
自分を実験台にする、という生き方としても、これは悪くない、と思う。あるいは、「殺さない」という在り方としても可能性がある。もし、自分の感じ方と仙道が通じるとしたら、「殺さずに生きる」ということになるのだと思う。
尤も、いきなり仙道、とか言い出しても、そう簡単にできるものではないのだろう。ただ、不思議なことに、いわゆる仙人と呼ばれる人たちは、都会に住んでいる人が多いようだ。都会の方が修行になる材料に満ちているからだという。
音楽と手に入れた団地の権利が関係なければ、多分、オレは都会ではないところで生きた方がいいのだと思う。その方が、空洞という在り方を通じて、いろいろな生命・存在と対話することが可能だからだ。
だが、ここに至って、仙道は、都会の方が有利、となれば、また一つ都内で生活する根拠は増えた訳である。
とはいえ、仙道を体現している人の存在をしらないのである。武道などで、気を扱っている先輩はいるが、仙道、となると、いないのである。
web上で、そういう記事を書いておいでの方は、多分少なからずおられるのであろうが、まだそこまで、手が回っていない。
本で適当なものが、どんなものがあるのか、見ているが、実際に手にとってみないと分らない。神保町に行っても、この手の本が少ない、というのは気がかりである。
その理由の一つは、オウム真理教事件があったからではないかと思う。
つまり、オレみたいなヤツが、そっちに向かった、という可能性があるのではないか。そこが微妙なところだ。そういう意味では、注意しないといけない。たまたま手に入れた本などの資料が、そっち向けのものだった、という可能性がある。
そんな訳で、仙道自体のもつ脅威よりも、そういう資料をばらまく存在もあるかもしれない、ということである。
仙道、という表門から入るよりは、ブレサリアンという在り方から入って、結果的に仙道の入り口に立っていれば、いい様な気がする。
別に、まだ、仙道を選んだ訳ではない。ブレサリアンと仙道が繋がっている、ということが、まだ、確認できただけの段階なのだから。