先週のお歌の日、大学生たちの様子から | 巡礼者のブログ

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 サイゼリヤにしけこんでいるが、大学生たちが大勢、ドリンクバーだけ取って、試験対策をしている様だ。

 印象に残るのは、「単位というお給料をもらって...」という、女子学生のつぶやきである。

 オレなんか、単位なんか関係なく、よその大学の講義とか、となりの学部の講義とかに出入りするのが普通だったから、「単位というお給料」という言葉は実感なのだろう。

 でも、単位をもらえる、というのはある意味で恵まれているかもしれない。オレの場合は、ドイツのヴァンデルンなどの制度が日本にはなかったので、もぐらせてくれるだけでありがたかったのではあるが。制度があれば、単位もよその大学で取れるのだ。問題は単位を取ることではなく、何を学ぶかであった。

 ところで、子供が大学にいく、というのが、そもそも、社会では、上の人がつかえていて、あとからやって来る子供などには、自分の立場を譲る気などないのだろう。それで、とりあえず、大学生、という遠回りをさせておいて、自分の立場を維持したいのだろう。

 いまでは、さらに、正社員が派遣社員に脅威を感じ、「雇用確保」とか、会社にすり寄っている訳である。本人は真顔で言っているのだろうが、見方によっては、「見苦しい」という感じも受ける。派遣と正社員というのは、差別であるし、派遣会社は、人材を提供を根拠に、派遣社員からピンハネをしている訳だ。これって、立派な犯罪行為であり洗脳であろう。

 派遣社員と正社員の差別という雇用形態に関して、オランダ方式にする、という意見もあるだろうが、日本ではそれは難しいと思う。

 オランダの小学生をルポで見ていると、こどもの頃から、一人一人に合わせたカリキュラムを組んでいる。しかも、子供の習熟度に合わせ流動的に教え方を変える。先生が子供の特性に合わせるのだ。先生は、毎日一人一人の様子を報告する訳だから、先生という職業もまた重みが日本とは違うと思う。

 いじめにあったらどうするか、とか、いじめに合わない様にするにはどうするか、などのプログラムもある。プログラム、というよりは、ワークショップに近い、という印象だ。

 もの凄いのは、ルポを許されるモデルクラスであるからかもしれないが、子供たちが、学校が楽しい、と、口を揃えていうのである。日本の様に、机が、まるで公務員の職場の様に、役職順に並んでいる訳でもなく、じどうかんの様なゆるさがある。

 ただ、オランダの場合は、かなり早い時期から、才能と適正を判断し、それに合ったカリキュラムを組みすぎている様な気もする。

 オランダは、非常に小さな国であるから、人材を最大の資源と考えているのであろう。あるいは、水没が常なる危機であるから、土地より、人間を大切にするのであろう。それが、小学校からのカリキュラム、早期の職業選択につながっているのだと思う。

 オランダのサッカー、一部リーグ、エールデビジのアヤックスという強いクラブがある。アヤックスの早期教育は有名で、たぶん、それが、世界中のクラブに影響を与えていると思う。アヤックス・アカデミーというのがその核である。

 アヤックスは、ヨーロッパでも最強のクラブの一つであるが、若い子を早い段階から、他の国のクラブに売ったりしている。人材をお金にするのである。ほかのクラブからの引き抜きである。

 日本の話に戻るが、さっきの日本の女子学生の「単位というお給料をもらって」という、ある意味でぬるい世界と違うのではないのだろうか、と、オランダについては思うのである。

 もし、日本の先行きを考えれば、人材を育成できる人間を育成しなければならない筈なのだが、日本の教員は、それほど信頼されていないし、オランダの様にやれ、と言われても、能力的に無理なのではないか。

 まずは、国の、教育指導要領から変えないといけないだろう。ただ、きっかけはある。

 それは、現・安部総理が、元・安部内閣だった時代、教育基本法に、「教育の基本は家庭にある」という条項を盛り込んだことがある。以下は、安部の意図とは全く違う話である。

 いろいろな意味に取れるが、一つは、「国には、もう子供を教育する責任はとれない」という宣言である、ともとれるのである。ちなみに、自分は安部内閣を全く支持してはいない。

 教育基本法の実状は、いじめから始まって、多くの人の関心事ではある筈である。

 だが、不思議なことに、日本というシステムにあっては、いじめ、という犯罪行為も、「ぬけ人を許さない」という在り方に一役かっている、という不埒な見方も可能なのだ。

 だが、教育基本法が、その様に変わった、ということは、家庭、あるいは、子供に、教育に関する選択肢ができた、ということである。なにも、義務教育にこだわる必要はない、ということになる。

 とはいえ、学校に行かない子供、の立場を考えるに、いつも一緒に遊べる友達がいない、環境はない、というのは痛い。

 かといって、現在の日本の様な、大昔の工場労働者を均一に作る様な教育は、時代錯誤も甚だしい。それに、たとえば、因数分解一つにしたって、それがどう、職業で役立つのか、微分・積分が果たして、学校から離れたあと、直接役だったことがあるのか、というと、その意味も分からないし、役立ったことは皆無である。

 おまけに、ちょうど入試の時期ではあるが、あんなものは、ほとんどクイズの様なものであり、人間としての能力や豊かさを問うものではない。受験生には失礼だが、なんで、そんな下らないものにつきあうのか、と思ってしまう。自分も受験生だった一人としてそう思う。

 逆にいうと、生きる意味を教える教師や親というものが存在しなかったのである。だから、大学にいくときは、教授で選んだのである。

 ところが、残念ながら、その教授は急死。それもあって、オレは、いろいろな大学のモグリをやらざるを得なかった。だが、今でも、それらの講義は生きているし、今でも読んでいる分野の本はある。

 ところで、この教授で大学を選んだ、という話は、高校の校長が感動したらしく、次の年の朝礼で、オレのことを話したそうである。

 実にバカなことだ。オレは、高校まで、教師を選べず、担任の教師のパワハラにもあったから、教授で大学を選んだのに、そんなことは、校長も把握していないのだろう。

 そんな訳で、教育者というのは、大抵はバカなのだと思っている。いっそ、子供は、有能な先生にしかつけないシステムにしたらいいのである。別に、成績的に有能ということではない。パーソナリティとして有能な教師を子供が選べれば、ずいぶん楽に学生時代を過ごせるのではないか。ということは、ほかの自分の興味のある分野に手を出せる、ということになる。

 それは、部活でもいいし(最近問題が取り上げられているが)、クラブチームでもいいし、じどうかんの企画に参加するのでもいい。いろいろな社会見学をして、自分の人生の選択肢を増やせばいいと思う。それから、自分の生きる、あるいは戦う分野を決めればよい。

 ついでに逆転の発想で、そういういろんな居場所で、普通の教育も受けらればいいのである。じどうかんなり、クラブチームで、算数とか、国語も習える様にしたらいいのである。

 ある意味では理想論かもしれないが、教員も、自分の教える技術を磨き、教えていることの意味も伝えることのできる様な教員になる義務がある。義務で足りなければ、使命である。

 ただ、最大の問題はお金、あるいは、それに代わる、やりがいである。

 生徒とその家族にとっては、一層そのことが問題となる。恵まれない家庭は、仕方なく、時代錯誤の義務教育を受けなければならなくなる。これが最大の問題だ。

 だから、一人ではつかいきれないお金を持って死ぬ老人たちの財産は、貧しくても可能性のある子供の教育費に使えばいい。

 もし、日本が恵まれた国でいたいのなら、教育を受ける自由度と、そのための教員育成にお金を出せばいい。

 ただ、その育成する人を、どういう人にするのか、ということだ。国は今の国の都合にいい人にしたいだろう。

 だが、安部が、教育基本法にそう書かせたのだから、ここらがチャンスだろう。

 と、ここまで書いて、さっきの女子学生が、「あいつ(教授)、自分の言ったことだけ書かないと減点なんだよ」と言っている、すると、男子学生は、「自己満だよなー。しょーもねーよな」と言っている。

 教授よりも、人間としてできているこういう学生がいるのだから、その邪魔を大人や国家がしてはならない。

 この時期、学生の本音が、サイゼリヤではこの様に聴けるのである。彼らは、自分がバカな大人になることを心底恐れているのではないかと思う。それがこんな発言になっているのではないか。なにげない光景ではあるが、そんな不安を、若い人の声から感じるのである。



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