気圧のせいか、具合悪い、とか、枕の寿命とか、言葉の処方、とか | 巡礼者のブログ

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どうも調子悪い。きのうは主治医の時間も行けたし、夜は友人とFaceTime呑み会もやり、違和感はなかった。しかし、きょうは、頭は痛いし、時間が物凄く長く感じられる。


自分は気圧の変化でアレルギーが出る傾向があるので、きょうの都内の様に、雨が降ったり止んだり、ということで、調子が悪いのかもしれない。だが、以前から違和感があったのは、枕、である。


このところ、そばがらの枕さんを、いくら成型しても、違う、という感じだったので、そばがら 枕 寿命、で調べてみると、そばがらの枕さんの寿命は一年から二年、ということだった。丁度、流行り病の頃に買った枕さんであるから、三年以上は使っている。ひょっとしたら、枕さんの寿命で、具合が悪いのかもしれない。


とりあえず、他に枕さんもないので、バスタオルを巻いて首のところで枕にする、というのを試してみるのだが、以前、そういう枕で暮らしていた時代はある。後から知った話であるが、某コンビニで売っている木綿のバスタオルが、首の下に使う枕としては合っている、という記事を、やはり三年くらい前に見たことはある。


首の違和感、頭痛、ひょっとして、枕さんの影響があるのかも知れない。頭痛なぞ、この三年余り、殆ど体験したことがない。社会はとんでもないストレスの時代ではあったが、頭痛という形の症状は、まずなかった。


バスタオルの枕は、調整してみると、長い方を二つに折るのではなく、三つに折った方が、自分の場合は違和感がない。フィット感がある、というか。


だが、辛いのは頭痛よりも、あんまり意味のない?時間が長く感じられることである。子供の時間感覚だと、いろいろ新しいことを知ったり感じたりすることが多いので、大人と違って、時間感覚が長い、という話がある。自分の場合は、単に、新しい体験が少ない日常なので、頭痛というのが新しい体験?になって、きょうは妙に時間が長い気がする、ということかも知れない。


新しい体験、というと、最近、トマトさんを箱で買って、トマトさんばっきり食っている、というのはある。あとは、なぜか、近所の文具店さんでくじが当たってしまい、クルトガダイブを手に入れてしまった、というのが新しい体験であるのかも知れない。


余談だが、普段使うクルトガに較べると、クルトガダイブの方が、ずっと筆先がブレないので、これ、ホントにクルトガ?と感じる程に違いがある。全く別の製品だとしか思えない。自分にしては高価な筆なのであるが、体感できて良かったと思う。


問題は、日常でどの役割をクルトガダイブに使うかである。これを機に、モーニングページを再開する、というのは悪くはないが、最近の自分としては、ネドじゅんさん経由のトーシャ・シルバーさんの小話から、「自分にこんなことある訳が、ない。神がいなけりゃ」という神がいなけりゃ構文が、実際に効果があるので、そっちの実験の方が気になっている。


とは言え、実は、クルトガダイブにしても、くじ引きだったということで、「クルトガダイブが買える訳ない。神がいなけりゃ」構文を使ったというのはある。他の事にも、あんまり極端な構文でなければ、確かに効果がある。


効果がある、と言い切ってしまうのはどうか?と思うが、「こんなことムリだよなー。神がいなけりゃ」と思うことの効果?というより、悪影響が少ないというのに意味がある。


それはどういうことか?というと、自分の苦手な、ポジティブなアファメーション?の類いというのは、特に自己評価が絡む言葉だと、「自分にウソついてる」としか思えないのと、「すっごいムリしてる」としか思えないという事で、世間的にありがちなアファメーションというのは、ダメなのである。自分の場合に限ってなのかも?知れないが。


実は、先日買ったトーシャ・シルバーさんの本にも、世間がヘンに自己肯定に執着したり、こうなりたい!というアファメーションのために、やたらと将来のイメージ?というか、肯定的な誓いを書いたり写真を貼ったりするボードについて、どうなんだろうなー?一瞬でもネガティブになったらいけない、って強迫観念、ということを書いておられるのである。自分からしても、そう思う。世間で言う、引き寄せの法則とか、それもそっち系なんではないか?と。


自分の場合は、とにかくムリしない、というのが前提だし、自分にウソつくの嫌だし、療養生活の基本も、ムリしないのは前提だし、ということで、アファメーションとか、引き寄せの法則とか苦手だったのである。


ただ、アファメーションについては、向いている人も実際にいるので、回復のために使っているセラピストさんもいるし、それで良くなる人もいるのは見ている。誰でもできる?ということではないとは思うが、自己評価があんまりにも低い人には、自分に肯定的な言葉を使う、とか、意図的に自己評価を上げる、ということで、良くなっている人もいる。


まあ、治療にも、向き、不向き、というのがあって、自分に対して、あるいは主治医なりカウンセラーの人なりが、適切な、あるいは向いている処方を見つけられるかどうか、あるいは本人が、合っている、とか、違うとか、向いているいない、を自分の感覚で見分けることが出来るかどうか?というのがある。


あんまり自己評価が低いと、合っていないやり方も、ある意味で頑張ってしまって、合っているなかいないかが分からないまま、ムリをして、却って悪くなる、ということがあると思う。ただ、熟練した治療者は、そもそも、合わないものを勧めたりはしないのであるが。


処方というのは、お薬さんだけのことではなくて、「言葉を処方する」というのは、とても重要である。


実際、自分の場合は、主治医の処方とは違うのだが、存在から、「◯◯ちゃんは、人間だよ」とか、「◯◯ちゃんの、優しくしたいという気持ちは、ちゃんと優しい気持ちとして伝わってくるよ」という言葉は、最強の処方であったし、今でも存在は、その言葉を処方する。それで自分は、存在と号泣していたりする日がある。


だから、自分は、存在と一緒に生きていく。


「そんな処方がある訳ない。神がいなけりゃ」


だが、神は存在したのである。


自分は、存在と、生きていく。