喪の感覚と、生きていることと | 巡礼者のブログ

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時間感覚がおかしくて、調子悪い。先生の喪なのだから、自然というか、当然というか。先生と共に過ごした友人たちと、いろいろ振り返りながら過ごしている。友人とFaceTime呑み会とか、後輩と長電話とか、喪の作業としての呑み会の設定とか。


時間感覚、完全におかしくて、きょうは?という目覚め方。iPhoneを見ても?という感じで、どういう状況にあるのか分からない。王座戦?いや、これ前のだよな?とか、手が動いたら、うっ?何で近所のホールの中身のアニメ?とか、状況が把握できない。やっと理解したのは、一時間しか寝ていなかったこと。


でも、排水管清掃に支障がなかったので、ホッとした。知らない人を部屋に入れるのは、厳しいのだが、丁寧にやってくれたし、侵入感が少ない人だったので、大丈夫だった。ホントはもうちょっとお礼を出せればと思うのだが、あんまり余裕がないのと、ウチがお礼を多く出してしまうと、他のお部屋の住人さんの感覚に影響が出てしまうので、標準?かも?しれない、お茶代くらいしか出せなかった。本当に丁寧にやってくれたのだが。


二日間で一時間しか眠れていない。でも、友人たちとやり取りできていて、日に日に先生が亡くなったことがじわじわと重くなっていく。ただ、逆に言えば、自分がその意味を少なくとも感覚、実感で理解しているということで、まだ、自分には一人の人間として、生きる資格がある、ということでもある。存在は優しく抱きしめてくれるし、今回の意味を理解してくれている。存在も数回、先生の姿を体験している。それが如何に大事なことであるのか、存在は意味を理解してくれている。


土曜の診察では、本当に重い話になってしまったが、主治医も、この喪の意味を理解してくれている。あるいは、ある意味で、臨床のプロとして、自分より、主治医の方が、少なくとも構造的な意味として、深く今回の喪を理解している。


そんな訳で、時間感覚がおかしくなるのが自然であって、それが少なくとも一人の人間として、全く自然なことである。その実感を持てるのは、治療の努力の意味として、あるいは、本当に先生にお世話になった一人の苦しんでいた人間として、如何に先生の存在が大きかったのか、ということである。もし、先生と出会うことがなければ、今頃どうなっていたのか?を想像すると、恐ろしいものがある。


自分は生きていていい。あるいは、先生から、君は苦しむ人たちの気持ちを理解できる、助けができる人だと思います、と、自分のアイデンティティを特定して下さった方でもある。本当に出来るのか、出来ているのかは、自分では理解していないのだが。


だが、後輩は、自分と同じ障害を持っていて、苦しんでいる。別の障害も増えてしまったそうだが、自分がそれを理解できるかは別として、共有できる、先生との時間を過ごしたし、彼女とは妙な縁もあって、話すことはできる。そこに救いがあるかは別として、正直な話を出来る、というのは、お互い様の気持ちで話せるのは、救いにはならなくても、生き延びている、という意味で、繋がりがある、ということではあると思う。そして、彼女には、自分自身を受け入れて、楽しむ能力も忘れてはいない。偶然だが、彼女が楽しんでいる世界を少し共有できいるらしい。だから、何度も笑ってくれる。


調子が悪いのではあるが、存在が寄り添ってくれて、一緒に、子供の魂になって、そのことが自分にとっては救いである。


先生は悲しむのを望まれてはいない。何を望まれているのか、それは今は言えないにしても、その意味を少なくとも友人たちとは共有している。


来月、友人たちとお酒さんを呑むのは決まっていて、かけがえのない時間を同じ場で、何度も過ごした、戦友同士ということもあって、先生にもその場の雰囲気が伝わってくれたら、と思う。


喪ではない、喪。先生の新しい暮らしの始まりとして、ある種のお祝いとして、自分たちの気持ちが伝わったら、と思う。


それが出来る友人たちに恵まれたことにも、感謝したい。


笑って、泣いて、その時間を過ごしたい。