ラーメン”呉湾おさんぽクルーズ”は、私がボランティアガイドとして活動している拠点の一つです。 呉~江田島港フェリー(乗船時間≒45分)、呉湾の風景を眺めながら心地よい船旅を楽しむ企画です。
対象便は; 毎日 呉発 8:35 ~ 18:10 の計9便;
この中、毎週 日曜日 12:20、14:22の2便私たち ”呉観光ボランティアが、見どころをガイドしています。 『周辺に見える風景や 現在の呉情勢に風景に詳しい人』、『日本最大級の自衛隊基地=呉に出入港している護衛艦に詳しい人』、『かつての太平洋戦争や、それににまつわる呉軍港の話』など、ガイド員によって『得手・不得手』の分野はありますが、お客様にはそれぞれの分野で興味深く聴いて戴いていると、私たちは思っています。

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ラーメン海軍増強と瀬戸内(呉湾周辺)歴史的背景
 ◆◇日本海軍創設
 黒船に対し開国の前提として、勝海舟は欧米に匹敵する海軍をもつことを提唱していた。坂本竜馬は土佐藩出身で長州藩に与していたが、勝海舟と交わる内に次第に惹かれていった。
 折から『薩摩藩(幕府側)』 対『長州藩』の対立が激化する中、『欧米の強敵を前にして薩長が争っている場合ではない
!!』と、薩長を和解させ、幕府に従順だった瀬戸内の塩飽水軍の水夫等を募って海軍伝習所の開設に奔走していた。

 ◆◇ 明治時代以後の”日本のシナリオ”
 明治時代になると、海軍増強・富国強兵に突き進んだ。 軍事や政治、社会、教育、銀行・・・等、諸制度、文化面も含め・・・欧米の進んだ仕組みを採り入れ、鉄道網を始め、日本中で軍需工場建設、鉱山開発、道路やダム、発電所建設などインフラなどの工事が急ピッチで始まった。 
 ちなみに鉄道は明治5年=新橋~横浜の開通を皮切りに、明治22年=神戸、明治24年=青森、明治34年=下関まで開通・・・明治末44年頃には本州日本海側や九州・北海道を含む日本全土に延伸されていた。  呉には明治19年海軍鎮守府が設定が決まると、明治、大正、昭和初めの瀬戸内海は年を追う毎に軍事色に塗られていった。

 ◆◇呉鎮守府の開庁
 しかし1886年(明治19年)「海軍条例」により全国に四つの海軍区を定め、各海区の軍港に鎮守府が置かれ、1890年(明治23年)、明治天皇臨席のもとで開庁式が行われた。 呉海区は「紀伊半島~瀬戸内海~九州東海岸~四国全周海面を所管した。
 海軍工廠(工場群)も急ピッチで、造船ドックはまっ先に建設された。ちなみに1894年(明治27年)に第1号艦 ”宮古”の起工から、太平洋戦争まで100何十隻もの戦艦が建造された。
   1885年(明治18年)海軍兵学校は築地から江田島に移され、後には
世界3大兵学校と言われるまでになった。
 日清・日露~太平洋戦争を通して、常に【連合艦隊】の動きが注視される中で、呉鎮守府が主役的な役割を担っていたと推察している。
 併せて言えば、広島にも陸軍の鎮台が置かれ、呉・宇品(広島)港からは、日清、日露、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と、半世紀に亘って大勢の兵士が出征していった。