(前回からの続き)

  海上自衛隊呉地方総監部第一庁舎(旧呉鎮守府庁舎)

 明治40年竣工。威風堂々としたレンガ造り中央部にドームを配し、レンガと御影石を組み合わせた近代洋風建築に、当時の技術の高さが伺えます。 「鎮守府の街 ”呉”」を偲ぶ代表的建築物です。
総監部敷地内には、最も古い明治22年(1889)当時の文庫測器庫事務所や、昭和初期デザインの旧通信隊庁舎などレンガ造り建物が沢山残っています。
 呉に限らず、木造を除く明治から大正時代の建物は、
石造りか、レンガ造りが主流です。 各地に現存する軍関係や官営の大型建造物群(例;東京駅、横浜レンガ倉庫群等々)はレトロな雰囲気を醸しています。 鉄筋コンクリート造りの普及は大正末期頃以降からです。

  

 

  呉鎮守府司令長官官舎  ※国指定重要文化財
 呉鎮守府設置に合わせ総2階建て洋館が建てられましたが、明治38年(1905)芸予地震で倒壊し急遽再建されました。 横須賀司令長官官舎と同じ櫻井小太郎設計の和洋折衷の建物です。
 和館部は長官と家族の住居として使われ、洋館部は来客用で、内壁には希少な金唐紙が絢爛豪華に使用されています。

 


  本庄水源地堰堤水道施設  ※国指定重要文化財
 呉鎮守府水道の貯水池として大正7年(1918)に完成。長さ97m、高さ25m。重力式コンクリートダム。完成当時は東洋一の規模を誇りました。 

  アレイからす小島
 約300mの護岸は、眼前に停泊する潜水艦が見られる公園(アレイからす小島)になっています。 この辺りの建物群は明治30年代に建てられた、海軍工廠 造兵部、砲煩部(ほうこうぶ)、水雷部、製鋼部などで、それぞれ兵器開発や製造をしていました。 道路向かいのレンガ倉庫群は、水雷庫で、海側に数カ所突き出た所では魚雷発射試験もされたそうです。 護岸はこれらの工場建設時に築かれましたが、特異な形状に加工された切石を組合せた石段や、切石に金物を打って繋ぐなど当時の珍しい土木技法が見られます。
 南端の古いクレーンは明治34年(1901)に設置され、魚雷の積み下ろしに使われた英国製のクレーンです。
 現潜水艦桟橋には、レンガ倉庫群から(当時)魚雷や弾丸などを積出していたトロッコレールが今も残っています。
 かつて日清~日露~太平洋戦争では、呉鎮守府は連合艦隊の主役として、湾内は夥しい数の戦艦や はしけや、資材運搬船舶など活気に溢れていました。 ここからは そんな時代を想起してみるのが一興です。

 

   

この記事(呉海軍鎮守府 1~5)は 次のHPにまとめて記載しています。

日本遺産;呉を中心とする「海軍鎮守府物語

 

(前回からの続き)

  呉鎮守府
 そんな経緯で、鎮守府設置の決定(明治19年)前後から、”呉”の街は急に慌ただしくなります。 海軍用地の整備、市街化区画の整備、巨大な諸施設建設も一気に始まります。 当然、建設工事をする人、完成した施設の中で働く人、軍関係の役人、兵士、その家族、彼らを相手に商売に携わる人・・・などで人口は急増し、呉の街は一気に活況を呈します。 その模様は入船山記念館展示の絵画にも描かれています。
 ”呉”は、敵攻撃の防備上、地理的に最も安全なので、海軍機能の最も重要な施設が次々建設されていきます。 「日本海軍第一の製造所」と位置づけられた《造船ドックの工事》も始まりました。 そして大体の施設が整った明治22年に開庁、開庁式は翌23年に明治天皇を迎えて行われました。

  

 

 それから数年後には、日本製第1号艦 ”宮古”の起工が始まりました(竣工は明治32年(1899))。 鉄道も開通しました。 立て続けに日清戦争が始まり、勝利しました。 勢いに乗って明治38年(1905)には 日露戦争にも劇的勝利し・・・、明治42(1909)年には市電も開通し、呉界隈は沸きに沸きました。その頃の海軍予算の 50%以上が”呉” に向けられていたと・・・聞いています。
 そうして呉鎮守府は、太平洋戦争終結まで(約60年間)、日本海軍の主役と言う大役を担いました。 日本陸軍も、 満州事変から日中戦争へと勝利を連続しました。 その勢いは世界最大戦艦「大和」も建造し、もはや”真珠湾攻撃” をも辞さない程になっていきました。

 

 

  海軍兵学校
 海軍兵学校は、”呉鎮守府” 開庁直前の明治21年に、築地から江田島に移されました。 第1期生は広瀬武夫が、翌々年には秋山真之も主席で卒業し、日清・日露戦争には東郷平八郎の配下で大活躍しました。
 後には山本五十六ら海軍トップを続々と輩出しながら、太平洋戦争終結時まで(半世紀以上)君臨し、その影響力は ”世界3大兵学校” に数えられています。 太平洋戦争末期には、岩国や舞鶴や針尾分校が開かれ、急ごしらえの若い兵士たちの多くが、神風特攻機に乗機しました。 構内に残されている遺書には胸が締め付けられます。
 現在は海上自衛隊(幹部候補生学校及び第一術科学校)になってますが、海軍兵学校の歴史を見学できます。

  まちの基盤整備
 呉のまちは碁盤目状に道路整備され、着々と新しい街に生まれ変わりました。 電気やガス、水道、医療機関なども次々整備が進み、続いて鉄道建設や市内電車も・・・、”呉”の人口も、日増しに増加し昭和18年(1943)には40万人に膨れ、住家は山の中腹まで這い上りました。 街はすっかり繁華な近代都市に変貌を遂げました。(続)

 

(前回からの続き)

  各鎮守府の開庁
 当時、北前船などが頻繁に日本中を往来していたので、”呉”にも 色々な情報は伝わっていたと思いますが、誘致運動や現地測量など、実際の動きが現れたのは明治10年代後半ではないかと想像します。
 【
横須賀鎮守府】は、前身の横須賀造船所を引継いで明治17年に開庁しました。
横須賀造船所は、鉄製品のみならず建築用レンガまで、幅広い産業製品の製造体制を整え、その経験や知見は、【
呉鎮守府、佐世保鎮守府】(何れも
同22年開庁)、【
舞鶴鎮守府】(同34年開庁)の建設に活かされ、各鎮守府は我が国最先端の工業技術や設備が導入されました。 こうして横須賀海軍工廠は、先輩格として近代日本の躍動をリードしました。

 軍鎮守府開庁と軍事力の拡充強化
 各鎮守府の開庁により、日本の近代化は猛烈なスタートが切られました。 それに呼応して朝鮮半島への進出を拡大しました。 そして日清戦争に勝利(明治28年)し、朝鮮半島が支配下に入ると、更に10年後には日露戦争にも勝利しました。 その勢いで日本軍(陸軍)は満州にも入城しました。 現地では当然 衝突が頻発しますが、日本軍はその度に軍事力を増強し、戦線は中国大陸にも拡大していきました。 海軍各鎮守府も互いに結束して補佐し、太平洋戦争終結(昭和20年)まで、海軍力を発揮しました。


  


  欧米各国の協力支援と、中国への侵攻
 当時、欧米列強に睨まれた弱国が、植民地支配を逃れるのは至難な時代です。 「大平の眠り」から覚めたばかりの日本が、急速に、大政奉還・明治新政府樹立に漕ぎ着けたのは奇跡です。 それが米欧と交渉し鎮守府建設まで漕ぎ着け、極めて短期間に世界有数の軍事強国に成長したのは、正に奇跡中の奇跡です。
 しかし日本がそんな軍事強国になるには、列強各国から強力な支援があったことは間違いありません。


 よちよち歩きの日本が、欧米列強を仮想敵国として対等に折衝するには、海軍創設や先進文明輸入に必死に努力し、それが実現できたことは賞賛されるべき大偉業としても・・・、しかし列強各国は、(日本に)何故そんなに協力的に軍事留学まで受入れ、指導もしてくれたのか(?)疑問です。
 貿易が目的と言っても、食料も、資金も、地下資源も、労働力も、科学的知識もない日本は、朝鮮や満州や中国に侵攻して”富” を持ち帰る以外、対価は払えない。 欧米列強はそれを承知で (日本人の)軍事留学や指導まで受入れたのか?、それとも朝鮮・満州への侵攻は日本が自発的に始めたのか?。・・・何れにしても、国際連盟(リットン報告)も(満州国を)黙認する形に留まったから
侵攻(日中戦争)は停まらず、結果的に連戦連勝を続けました。 しかしそんな状態は 長続きする筈がなく、全世界から日本批判は日増しに強烈になってきました。

 

 


  太平洋戦争へのレール
 その裏では、日本国内は 人口急増し、全産業も全労働者も 軍需関連に集中・偏重し、若者は徴兵、或いは軍での出世を夢見て志願し、マスコミもそれを強力に支援し・・・、つまり、食料も仕事も、軍事費も、莫大な借金も・・・戦勝なくして国家は成り立ちません。 所詮、なけなしの国家予算から大枚をはたいても、戦艦『大和』を建造し『世界を相手に戦う』 と言うレールの抜け道はなくなっていました。

 

 

 しかし、そんな歴史(太平洋戦争も含む)を通して、日本は高度科学技術を培いました。 それが、戦後 平和利用に利用され、呉市一帯は有数な重工業地帯に、日本は世界第二位の経済大国にまで驚異的発展に繋がりました。
 日本遺産登録された《旧海軍4軍港遺跡》からは、そんな歴史経過を読み取れます。(続)

 

(前回から続き)

  ”富国強兵”政策と、”海軍鎮守府”設置計画
 明治政府が近代国家建設を目指して、真っ先に掲げたスローガンが「富国強兵」です。
 西欧列強と対等に渡り合うには、”横須賀造船所”の拡充に続き、 日本周辺海域に軍艦を配備して日本を防備すべく ”
鎮守府”の設置計画を明治9年(1876)に決定しました。
 
鎮守府とは、日本の海域を 四つに分割し各海区に 『軍港と、海軍工廠(艦艇の建造、修理、兵器の製造等を行う工場)、海軍病院、海軍水道などの施設を設け、運営や監督を行う《海軍本拠地》』です。
 しかし具体的な設置場所については、その後、敵艦の進入を阻む地形や、艦艇の航行・停泊の便、水深、交通・連絡の便、必要物資調達、兵員集めなどの諸条件が最も適する港(軍港)として、①横須賀は「横須賀造船所」を引継ぎ、②呉と、③佐世保 は明治19年(1886)に、④舞鶴は少し遅れて明治22年(1889)に設置が決まりました。

 

  富国強兵政策
 ここで、「富国強兵」には、学制、兵制、税制、殖産興業の4つの政策が打ち出されました。

  • 学制】は; 近代的な国家を目指すために教育に力を入れ、身分や性別に関係なく国民皆学を目指しました。 それは当時のフランスを見習って制定されたと言われています。
  • 兵制】は; 徴兵令を出して、国民に兵役を課し、武士制度は廃止しました。
  • 税制】は; 地租改正で土地に税金を課して国の財政に当てました。
  • ※【殖産興業】は; 軍関係以外の「官営事業の整備、及び統括推進です。

 つまり、交通・通信設備、金融制度、鉱山事業や諸産業施設(工場等)の開設や統括、及び金融制度では貨幣などの制度改革です。

※【殖産興業】の具体例としては;

 群馬県の富岡製糸場や、紡績会社や、八幡製鉄所や、鉄道(明治5年に新橋ー横浜間の開通後 全国に延伸)や、あらゆる近代産業、銀行などの金融機関や貨幣制度、インフラ工事なども対象になりました。
これらを ”官” が行うには仕事量が余りに膨大な為、民間事業者にも委託され、三井、三菱などの財閥が生れました。

こうして一気に ”文明開花”と、国造り改革が本格化していったのが明治時代です。

 

横須賀製鉄所と富岡製糸場
 日本の財源確保には、”生糸” は 唯一のドル箱(輸出品)として、真っ先に注力されました。 富岡製糸場は、明治4年に着工され、建設には横須賀製鉄所での経験や技術が利用されています。 例えば富岡製糸場の建物には、一部に横須賀製鉄所製の刻印のレンガも使用されています。 また日曜休日制度、健康診断、年功給、有給休暇、複式簿記も採用されていました。 人間関係も横須賀製鉄所の首長だった;ヴェルニーと、富岡製糸場の首長だった;ブリュナは家族ぐるみの交流があったと言われています。(続)

 

 

 

  黒船来航
 有史以来、一度も外国と戦争経験のない、いわば ”平和ボケ” 状態の日本に一変する時が訪れました。


ペリー来航

浦賀(横須賀市久里浜町)に黒船が来航すると(1853)、国内は一気に慌ただしくなります。
 江戸幕府は、要求に応じて下田、函館の開港を約束しますが、治外法権や不平等条約を次々と結ばせられます。 それは佐幕派や攘夷派の抗争を招き、混乱に乗じて、双方に武器を売る外国人商人も加勢して、京の町は一触即発状態になりました。
 しかしその一方では、欧米列強と対等の立場で渡り合うには、勝海舟や坂本竜馬らは、
「日本海軍」の創設 を提唱し実現を目指しました。 小栗上野介は、欧米文明を採り入れて西欧式の艦船を建造する 「近代的造船所(横須賀製鉄所)
計画」を提唱し建設にかかりました。

 

  横須賀製鉄所(造船所)
 江戸幕府が開国・開港するには、防衛手段として、西欧式の艦船を建造する 『近代造船所の必要性』 を説き、計画を進めたのは 幕府の勘定奉行;小栗上野介忠順です。
 早速、フランスの協力を得て周辺測量をし、先ずは江戸防衛の最適地として横須賀の現在地が決定されました。 建設は、技術的役割はフランス人技師;フランスワ・レオンス・ヴェルニーに一任されました。 「鉄を加工する場所」という意味で、幕府は名称を
横須賀製鉄所」とし、1865年(慶応元年)に起工式が行われました。

 

 政治面の混乱は、その後革命的な経緯で 江戸幕府が大政を奉還し、明治新政府に引き継がれました。
明治新政府は「富国強兵」をスローガンに、海軍創設や欧米文明の輸入を、更に強力に推し進め(横須賀製鉄所は)【横須賀造船所】と改名し、ここで得た経験は造船のみならず、観音崎燈台や富岡製糸場建設を手始めに全国で活かされました。 土木、建築、動力などの諸技術や工場運営の仕組みも西欧からそっくり導入され、
「横須賀造船所」は、我が国全産業近代化の原点になりました。

 

明治新政府の引継ぎと、「富国強兵」策推進
 勝海舟や坂本竜馬が目指した 「日本海軍」設立は、江戸の防御と、唯一の貿易港;長崎が拠点でした。
 しかし大久保利通ら欧米視察団が、欧米文明の驚愕的な進歩を見て帰国すると、明治新政府は軍事技術を始め、あらゆる近代文明の採り入れに、急角度の舵が切られました。
 既に立ち上がっている《海軍》や、《横須賀製鉄所》の拡充強化には一層拍車がかかり、鉄道も道路も、各地に近代工場建設、地下資源、ダム工事等のインフラ整備、政治、教育、銀行、警察制度・・・等々、文明開化の波は一斉に全国に押し寄せます。
 しかし、地下資源も、食料も、資金も、労力も、科学知識も乏しい日本が、欧米列強と対等に折衝するのは尋常でありません。 そんな先進文明を輸入する財源や種々の工事労働力の捻出には・・・、朝鮮政策が議題にあがると、西欧列強の冷酷無慈悲な「植民地政策や奴隷制度」を視察して帰国した大久保利通と、自らが特使として(朝鮮と)対話しようとする西郷隆盛との確執が生じ、更に「富国強兵」をスローガンに、徴兵制(武士制度廃止)の施行を急ぐ政府と、薩摩士族(武士団)の対立は西南戦争に発展しました。 結果は政府軍の勝利で、我が国の近代化政策は一層、拍車がかかります。(続)

 

  現在、沢山の護衛艦が停泊する海上自衛隊基地は、国内に 5ヵ所あります。 その一つが”呉”基地ですが、ここアレイからす小島は 沢山の護衛艦と共に、日本では唯一、潜水艦を見られる公園です。

  

  しかし、もっと以前の話しに目を向けて見ましょう。
現在は埋め立てられていますが、この沖合には小島(からす小島)がありました。 波静かな海面と複雑な潮流は小魚にとって絶好の住処です。 ぎらぎら輝く水面の あちらこちらに漁船が屯ろし、船頭たちは船縁りを叩きながら歌い、漁をする声が、犬の遠吠えの様に聞こえていました。
 ”呉”(現市街地)は干拓が進んで綿花畑が拓け、入船の丘には ”亀山神社” が威風堂々と 町の平穏を見守っていました。 仁方や安浦海岸一帯には塩田が拡がり、総人口 1万人弱の当時としては普通の半農半漁の町は、豊漁や豊作を祝う祭事もあちこちで催されていま した。
 そこに町役人達の請願が叶って日本海軍鎮守府の設置が決まりました。 それも瀬戸内海の奥深くに位地し、敵艦からの攻撃には最も安全と言うことで、”呉鎮守府” は海軍第一の本拠地」という重要任務が託されました。

 のどかな町は、あちらこちらで大規模工事の槌音が一斉に響きわたりました。 綿花畑は広い道路が縦横に走り、川には次々と橋が架かり、軍用地には見たことのない巨大レンガ造りが建ち並び、街中は工事する人、完成した工場で働く人、軍役人や兵士、その家族、商売を営む人、・・・呉の街は急に活気づきました。 電気もガスも水道もいち早く繋がりました。 沖合いには新鋭軍艦が停泊し、やがて大勢に見送られ出征する兵士姿も日常になってきました。

   

  反面、住民は、生活用地を一方的に買い上げ(移転させ)られ、亀山神社も移転、漁場も制限され、灌漑用水も軍優先に取りあげられ・・・かなり圧迫されました。 そんな変貌が人々の目に どう映ったでしょう?


  しかしそんな出来事は今は伝説と化し、構築物も 殆どが新しい工場群と化しています。 それでもここ(アレイからす小島)には、当時のレンガ造り建物や、300mにわたる《切石組み護岸》や、魚雷や弾丸の積出し桟橋や、トロッコレール、英国製クレーンなどがノスタルジックを誘います。
 ここから見渡す風景には、そんな”呉”の航跡や、「
日本近代化の歴史」がちりばめられています。 目の前に停泊する最新型護衛艦や潜水艦群と合わせながら、そんな情景を懐古して見るのも一興です。

  

 

 

 私が観光ボランティア活動を始めたのは『旅行が好き』だから。 若い頃は結構あちらこちらに行った。 その頃はどこに行っても土地特有な情緒があり、旅情には何時も新鮮味があった。
  だが今は、どこに行っても、鉄とコンクリートの巨大構造物が目に障る。 しかも新幹線駅も、JR駅舎も、道路も、ビルも、空港施設も、港湾施設も、民家も・・・、お土産品や人々の話す言葉も・・・全て一律、標準化してしまった。
 それは外国旅行に行ってもインターネットに国境はない、テレビも日本と全く同じ時刻に同じキャスターが語りかけている。 
 雄大な大自然はともかく、異国情緒は街歩きする時言葉が通じないことぐらいかな? しかしそれも・・・今は、世界中どこも英語が通じる時代になっているから・・・世界は急速に狭くなったと言うべきか、異国情緒が乏しくなったのはちょっと寂しい。
 
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 その反面、交通、通信、宿泊施設が凄く便利になって、以前とは比べものにならない程、短時間に広範囲に移動できる。 それだけ珍しいものに出会うチャンスが増えた。 しかも英語さえ話せば、どこの国に行っても珍しい所を沢山見学し、珍しい話が沢山聞ける。 一度の旅行で得られる知識量は、以前の比ではない。 呉の中にいると何も気づかない間に、広島にも宮島にも、しまなみ海道にも、日本中にも、外国人を含む観光客数は何倍増にもなっている。 世界は狭くなったと言うか・・・、グローバル化というか・・・?、しかしそんな波波に乗り遅れる者への容赦はない。 
 私のガイドするお客様にも、世界旅行や歴史好きな人は結構多い。ガイドの合間に、私の拙い体験談などをチラッと話すとお客様の反応は急変して、もっと興味深いことを教えて呉れる。
 あちらこちらの旅行談や歴史談を聞くと、私ももっと色んな所へ・・・好奇心が駆りたてられる。
 私もボランティアガイド暦8年、 そんな繰り返しで結構色々な知見を広めてきた積りだが、知見が広がれば広がる程、もっと興味が湧く。
 他のお客様にも、一人でも多くの人が、旅行の楽しさを覚え観光者人口に加わって戴ける様に・・・と思いながら、ボランティアガイドを続けている・・・!?
 
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【1】  緒 言

  最近、訪日客を含む観光ブームは一段と盛上がっています。 しかし観光客は全国一様でなく、特定の限られた地域に集中しています。 それには、交通機関の発達』による日帰り移動範囲の拡大、及び知力や体力をもてあます段階世代退職者の急増』は地方創生や街興し革命をもたらし、辺鄙な山奥まで魅力的な「新興観光名勝地」が沢山 開設されている要因が大きいと見ています。
  つまり、観光客は、広島や宮島には大勢が殺到しても、”呉” に来るには 「1日」が潰れるので、沢山の候補地の中から、1日単位の観光満足度競争】で第一位に選ばれなければ”来呉”は実現しません。 広島や宮島に来て、合間に来訪するとしても、大和ミュージアムを駆け足見学してトンボ帰りが定番です。

   ところで、呉周辺には、全国的にも第一級に相当する観光資源が揃っています。 パンフレットやテレビでも紹介されています。 それらをパーツとして物語化すれば興味深いテーマは幾らでも考えられます。
  そして物語に沿って(連続小説を読み通す感覚で)周遊するプランを観光商品化すれば、呉周辺は「第一級」の観光地に伸し上がる魅力(底力)は揃っています。
 それを引き出す仕掛けが、 『呉=ワンダーランド計画』 だろうと理解しています。
   そんな観点で、私たち国内や来日観光客に、直接、観光ガイドをしている「観光ボランティア」の立場で気のつくところを述べてみたいと思います。

  http://kure-sight.perma.jp/kure/setouchi_kankou-2-hp.html

 

 

(前回からの続き)

1.私たち日常観光客をガイドする立場で《瀬戸内観光作戦》を考えると、例えばパンフレットには魅力スポットが数多載せられていても、個々のスポット連係(周遊ストーリー性)が感じ難いこと、リピーターを促す為のシリーズツアー化、及び交通(移動)手段の弱点を補うには旅行会社などによる主催旅行(団体旅行)を主催旅行を主にすべきではないか・・・と考えた。

2.しかしそれだけでは、まだ一筋縄にはいかない理由がある。

それは観光推進母体(推進機構)が、直接働き掛けるメンバーである。
勿論、一観光ボランティアの私ごときが、会合や会議の状況などについて知る由もないが、普通に考えて、①関係各県市町、交通、宿泊、商工、旅行等の業界団体の代表などが軸になって総論が練られ、②それが下部組織に下される仕組みが普通だろう。

 もしそうだとすれば、下部に下がるにつれ 各論段階で色々な立場の利害得失が生じる、(末端現場で働く)観光ボランティアや町興し団体など、狭い地元愛者が構成員は、他エリアと協力や連係という考えはない。多くの市町(役所)には、それに対する指導も、業者間の既得権の調整も容易でない。   しかしそれに年月を費やしては《瀬戸内観光作戦間拍子に合わない。
 しかし、瀬戸内国際芸術祭とか、しまなみ海道サイクリングなど、あちこちのエリアでは見事に成功するから、訪日客が幾ら増加しても、他の地域では潤わない。

3.それを考えると、瀬戸内海観光作戦は、次のことに重点を向けるのが、最も少ない投資費用で最も効率の高いと考える。
セミナーや勉強会、パンフレットなどを頻繁に催し、自発的意欲のある市町や業者、及び市民グループなどの意欲のある積極的グループを発掘する。
それを”核”に、先行して
《=観光ハブシティ》を創生、将来的には牽引
旅行会社などによる主催旅行(シリーズツアー化)を奨励する施策を考える
観光推進機構は、以上が発展的に継続して行く様、各種セミナーやガイド研修など、グループ育成に力を入れる。
それが軌道にのれば、施設増強などは、なるべく自然の成り行きに任せる。

cf.  http://kure-sight.perma.jp/kure/setouchi_kankou-1-hp.html