現在、沢山の護衛艦が停泊する海上自衛隊基地は、国内に 5ヵ所あります。 その一つが”呉”基地ですが、ここアレイからす小島は 沢山の護衛艦と共に、日本では唯一、潜水艦を見られる公園です。

  

  しかし、もっと以前の話しに目を向けて見ましょう。
現在は埋め立てられていますが、この沖合には小島(からす小島)がありました。 波静かな海面と複雑な潮流は小魚にとって絶好の住処です。 ぎらぎら輝く水面の あちらこちらに漁船が屯ろし、船頭たちは船縁りを叩きながら歌い、漁をする声が、犬の遠吠えの様に聞こえていました。
 ”呉”(現市街地)は干拓が進んで綿花畑が拓け、入船の丘には ”亀山神社” が威風堂々と 町の平穏を見守っていました。 仁方や安浦海岸一帯には塩田が拡がり、総人口 1万人弱の当時としては普通の半農半漁の町は、豊漁や豊作を祝う祭事もあちこちで催されていま した。
 そこに町役人達の請願が叶って日本海軍鎮守府の設置が決まりました。 それも瀬戸内海の奥深くに位地し、敵艦からの攻撃には最も安全と言うことで、”呉鎮守府” は海軍第一の本拠地」という重要任務が託されました。

 のどかな町は、あちらこちらで大規模工事の槌音が一斉に響きわたりました。 綿花畑は広い道路が縦横に走り、川には次々と橋が架かり、軍用地には見たことのない巨大レンガ造りが建ち並び、街中は工事する人、完成した工場で働く人、軍役人や兵士、その家族、商売を営む人、・・・呉の街は急に活気づきました。 電気もガスも水道もいち早く繋がりました。 沖合いには新鋭軍艦が停泊し、やがて大勢に見送られ出征する兵士姿も日常になってきました。

   

  反面、住民は、生活用地を一方的に買い上げ(移転させ)られ、亀山神社も移転、漁場も制限され、灌漑用水も軍優先に取りあげられ・・・かなり圧迫されました。 そんな変貌が人々の目に どう映ったでしょう?


  しかしそんな出来事は今は伝説と化し、構築物も 殆どが新しい工場群と化しています。 それでもここ(アレイからす小島)には、当時のレンガ造り建物や、300mにわたる《切石組み護岸》や、魚雷や弾丸の積出し桟橋や、トロッコレール、英国製クレーンなどがノスタルジックを誘います。
 ここから見渡す風景には、そんな”呉”の航跡や、「
日本近代化の歴史」がちりばめられています。 目の前に停泊する最新型護衛艦や潜水艦群と合わせながら、そんな情景を懐古して見るのも一興です。