1明治時代日本は、太平の眠り、つまり”平和ボケ状態”から目覚めると、欧米勢による奴隷化攻撃に晒され、同時に進んだ文化や諸制度の採り入れも喫緊の課題となっていた。しかしそれは莫大な労働力・兵員・糧食・資源・資材・・・経費が必要だし、当時の国民は生活を最大限外犠牲にして懸命に働いてもとても賄えるものではない。
 賄えなければ先進文化や制度輸入ができないばかりか、奴隷制度に呑み込まれてしまう。勿論欧米とは色々な折衝機会はあっただろうが、究極的に日本の選んだ道は朝鮮半島と中国(当時は”清国”)への侵出だった。

 2そうと決まれば、明治政府は”富国強兵”を旗印にして、世界的にも奇跡的な速度で突っ走った。
それは鉄道、軍需工場、鉱山・炭鉱開発、発電所やダム建設等のインフラ整備、及び技術者や専門官も派遣して政治、警察、銀行、教育、軍事などありとあらゆる技術や制度を採り入れ、”文明開花”と”強兵化”への道を一挙に開いた。
それは日清・日ロ戦争に勝利し、日本全土の建設工事や炭鉱労務には朝鮮半島から大勢の徴用工を確保し、食料にも助力となり、近代日本を築く大柱になった。

 3軍事的には攻撃面はともかく、防御面でも(当時航空機のない時代には)瀬戸内海の島々には沢山の砲台が設けられていた。中でもこの近辺には①日本海軍の最重要基地である呉鎮守府と海軍工廠、②陸軍でも”広島鎮台”が置かれており、海上攻撃の際は必ず通過する拠点だけあって、”三高山砲台”は規模の最も大きいものだったという。

 4文化財として保存にはかなり手が加えられているのに対し、残念なのは観光などで訪れる客が殆どいないこと・・・。
砲台跡は方々にも遺っているが、草茫々や土砂に埋まりきちんと管理されているものは数少なくなっている。
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(見学2017-12-16)