今週の国会を軸に様々な悪しき法案がろくに議論もされず(公開もされず)多数の原理で可決してゆくようだ。入管法に保険証廃止、軍事費拡大、原発稼働などなどなど・・・(牛久)

あとの祭りになることが確定したのである。

 

「ピータールーの悲劇」

 

それはともかく・・・

格差の広がりを色々言われているが、日本がこれほど貧しくなったのは、法人税を下げて消費税を上げたからに相違あるまい。これが正しかったかどうか?という議論はここで控えるが、法人税を下げなかったら失業率が上がったかもしれないというのは間違いだ。正常な成長が金融財政政策に裏打ちされればこんな政策を放置することもなかったことだろう。政治家が利権で潤う仕組みの国だから仕方ない。

 

では、「貧しい者」の定義をどう考えるか?

ひとことで「貧しい者」といっても幅広い。本当に明日の生活に困窮するほど貧しい人もいるし、いくらお金があっても心の貧しい人もいるだろう。この貧しき人々はいったい何を欲し何に飢えているのだろう。

 

ドストエフスキーの小説「貧しき人々」では、極貧の中で最後に愛についてしたためられて物語は途絶えてゆく。きれいごとでいえばきっと多くの貧しき人々は愛を求めるのではないか?と考えるが、それは貧しくない人、つまり富める者(金持ち)も同じだろう。人類は永遠に愛を求め、手の届かぬうちに人生を終える。

 

お金持ちは、知性もあって、心も豊かだ。では彼らに共通するものは何か?それは生まれ持って与えられている者たちであることがほとんどだ。恐らく世界の数%の金持ちは生まれながらにして金持ちだ。だから何か特別な欲求などない。ただただ生きているだけで所得がある。労働という対価なくして生きていける人々だ。彼らはほとんど何の努力もせずに、現在価値(資産)を維持するノウハウだけを代々受け継いでいる。そしてそういう人たちが政を司るのである。

 

この国の恵まれた、生まれながらにして与えられた人々は、この国の貧しき人々のことなどお構いなしに軍国化してゆく。この国の人々が飢え死にしようがお構いなしだ。