発病11年目を迎える前に | レインボーののんびりライフ~難病と共に生きる♪

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日々の出来事や、病気のことなどエッセイ風に書いています。

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私は、1986年2月8日 帝王切開で3780gのぽっちゃりさんで産まれました。7つ離れた兄と、私の間には兄か姉がいましたが流産して、やっと二人目で生まれたのが私です。しかし、生まれて二日後目の異常を指摘され、小児科へ入院この子は、見えない、聞こえてない、発達も遅れるだろうと言われたまま、退院。母はその間産後うつになっていたようです。1歳半を過ぎた頃、兄がおもちゃであやしていたら、私は、右目でおもちゃを追い笑ったそうです。そして医師に連絡し、1%の希望をかけて、右目の手術をしました。その結果、視力が回復し0,1まで見えるようになり行動範囲も広がりました。左目は、視神経が未発達の為、生まれたときから光を感じる程度です。歩き始めるのも遅かったそうですが、盲学校の幼稚部へ通い始め、年中から一般幼稚園へ通い卒園しました。オバケなどいじめにあいましたが、当時の私は、はねのけて気にしなかったみたいで、逆にその姿を見て先生が感激してしまうほど泣いていたそうです。卒園後、今の所へ引っ越しし、一般小学校へ入学しました。4年生まではまぁまぁ順調で
したが、5年生でいじめにあうようになりました。ある日、教室の掃除をしていると、クラスメイトがトイレに来てと呼んできたのです。そこには破って捨ててあった悪口が書いてありました。目悪ババアは死ね 学校にこなくていいなど。同じ物が教室のゴミ箱にもありました。朝の会や帰りの会で勇気を出して発言しても無言。仕方なく終わりにすることにした覚えがあります。担任からもいじめに近いようなことをされ叱られました。当時身長が153センチくらいだった私は、運動会の踊りの練習で体育館の舞台で別の先生が踊り方を教えていても、私は見えなくて、教室で練習時、見えないから覚えられない、わからない私は、立ちすくむだけ、そしたら男性担任は、ちゃんとやれと怒鳴りつけたのです。
体育を休み、担任に頼まれて多目的ホールにあるキャスター付きのボードに画鋲で貼ってあるものを取るように言われて取っていました。そしたらバランスを崩しキャスター付きのボードが我が身に倒れてきたのです。手足に画鋲が刺さり血まみれに。保健室が近かった為、物音を聞いた先生がきてくれて助けてくれました。それが担任に伝わり、大丈夫かぁって 大丈夫じゃないよ バーカと心で叫んでいました。そして、あるクラスメイトから、あなたはね、クラス全員から嫌われているのよと言われて、その一言で我慢しきれなくなり、三学期を終えて 私は都内にある国立の盲学校へ転校しました。
小学校一年の三学期に入ってから、体にある異常が見つかり、翌日から半年間に及ぶ入院生活が始まりました。最初の診断は、副腎のガン 小児がんと呼ばれる 神経芽細胞腫。

つづく