あやちーゆるだらdiary

あやちーゆるだらdiary

自分の身の周りのこと、楽しんだこと、日々のぐちなどゆるくダラだらとかきつづってます。2011.11.17開始

 

12/29

 

朝いちばんに母からの電話。

何事だろうと思って出ると

 

「献体したいから、早く先生にいってちょうだい。早くしないと間に合わないから・・・」

 

口早に強めの口調で話し出す母。

 

開口一番に献体の話。

なぜ、献体なんだろう?と。

 

前にも臓器提供したい希望があり、病気的に難しいと医師より話があって、臓器提供は諦めた経緯はある。

 

その続きなんだろうか。

よくわからないけれど、

この頃、私達家族は残り少ない余命の母には

大きなことでも小さなことでも

母の納得する、希望する人生を送らせてあげたい・・・

という気持ちで母と向き合っていました。

 

 

献体を言われても・・・

この年末に

病院も休日体制となり、担当医がバラバラになっていると思われるため

「年明けには何とか医師に話をする」と伝え、母の電話を切りました。

 

この頃の母は少し物忘れが強くなっていたのでしょうか。

それとも何事にも「何とか早く問題解決しなければいけない」と思っていたのでしょうか、1つの物ごとを私だけでなく、兄や姉、兄嫁に同様のお願いの電話をかけていたようです。

 

下着についても

母に頼まれたと言って

同じもの(あの頃は某メーカーの暖かい冬用の下着)を、私も姉も兄嫁も買っていき、みんなで「母に(ばぁばに)頼まれた」と言って、何枚にもなった下着に途方にくれていたこともありました。

 

それでも、電話1本あるだけで

母が元気であることを知れたのは

安心の材料でした。

 

 

そして、この日は個室へ移った日でもありました。

 

親戚にも知らせ、

面会も大部屋よりも許される状況となったのです。

この日もだれか訪ねたのかもしれません。

仕事だった私にはまったくわかりません。

 

そして、21時前にまた母からの電話が・・。

 

「色々考えてくれて個室にしてくれたのはうれしいけど、色々管がたくさんあったり、看護師さんだけしか来なくって、寂しい。頭がおかしくなりそうだ。大部屋に戻してほしい」と興奮気味に話したのです。

 

後から知ったのですが

この日、呼吸苦を訴え母は酸素吸入が始まったようです。

酸素吸入の管とCVカテの点滴の管、そして、モニターの管。

多分、部屋にはモニターも置いてあったのではないかと思われます。

 

管だらけの自分の身体とモニター音だけが響く部屋。

 

それが恐怖心につながってしまった様子。

 

「看護師さんしか来なくて1日が長くて・・困る。お願いだから大部屋に戻してほしい」と懇願する母。

 

大部屋になると面会できなることも伝えたが、「それでもいい」と答える。

 

看護師さんに話してもらいたいというので、看護師さんに電話を変わってもらい、「個室に移ったが、母が大部屋に戻りたいと願っている」と伝え、明日検討しますとの返答をもらう。

 

そのことを伝えると

「よかった・・・。1人でいるの・・怖いから。大部屋の戻れる」と安心したように口調が穏やかになり、「ありがとう」と言い残し電話をきったのでした。

 

母の願うことだったら

何でもかなえてあげたい・・その一心でした。

 

1/30

 

朝から母から電話がありました。

 

「よく考えて・・個室で頑張る。年末と年始・・松の内は個室で頑張から・・。そしたら、大部屋に移して・・」と落ち着いた口調で、昨日と全く違う様子で話すのです。

 

年齢のことも考えると

管だらけで、物静かな個室にいることで、多少せん妄状態になったのかもしれません。

 

S病院の母の入院している血液内科の病棟へ電話を入れ、

個室→大部屋の移動を断り、個室ですごすことをスタッフに伝えたのでした。

 

年末は父や孫たち、姉、兄夫婦たちがようやく母と面会をし

また親族たちもようやく母と面会を果たしたのでした。