前回の記事で、コミュニティ間の諍い
について、書いた。
正直に、率直な「私」の意見を言えば
「なぜ、諍いをするのか分からない」
エネルギーの無駄遣い。
足の引っ張り合いをしていたら、ヘッポコ政治家と同じではないか?
と思う。
チーチーぱっぱをしたいのなら、そういったカテゴリーに属するしかない。
少し前のブログで、現代は
「競争社会」ではなく
「協調社会」であると述べた。
めんどくさいので、レッド・オーシャンやら何やらを持ち出す必要もない。
そーいう事が好きな人は、そういうグループや、カテゴリーに行けばいいだけのことだ。
以前、メンターに初めてあった頃、
私は、こう言われた。
邪念や雑念にまみれていた時の頃。
「サトーさん、
もっと明るいほうをみて!!」
「クリーンなイメージをして物事を見なさい」
「今のあなたは、私たちのような穏やかな、こころの平安からほど遠い状態だと思いますよ。」
本物の成功者というのは、脳科学や心理学の尺度では計測不能なほど、綺麗すぎる「超越した」マインドを持つ方が多い。
それだからか同時に、精神医学や精神病理学の定義で解釈すれば、いわゆる「過剰適応」といえるほど、とてつもない仕事量を、とてつもないスピードで、一気に片づけてしまう。
私から言わせて頂くと、病んでいるのは、製薬会社や政治の利権にまみれた、稼ぐ力もない医師のほうだと思う。
珍しく厳しい内容だが、事実だから仕方ない。
社会構造や組織構造に対して、変革を促す、という意味での慈愛から来る怒りは、常に正しい。
なぜなら、それこそが
「社会的正義」だから。
メンターには、こうも言われた。
「本当に、おかしいのよ、この世界って。私たちのような、働く必要のない人ほど200倍くらい仕事してるの」
「もっと働かなくてはならないはずの人たちが、悠々と遊んでるの」
「面白くて、優しくて、知識もある
あなただって、そうなのよ。」
「それだけのことを分かっているのになぜ、やらないの⁈」
返す言葉が、無かった。
その時の、私には。
さて、先日2013年度前期の夕学五十講
に参加して来た。5月21日。
講師は、経沢香保子さん。
私は、本講座を過去10年間50回は受講して来た。
間違いなく、BEST3に入る方だ。
口から発せられた言葉は、全て名言だった。大きなスクリーンに映し出された美しい表情は、0.1mmもブレがなく全く嘘がない。
嘘や、借り物の知識や、言葉はすぐに非言語に表れる。
無意識の表情や、普通なら仕草に表れる、
嘘をつくと。
それが、一切なかった。
一語一句が、全て経験に根ざした言葉だから、寸分の狂いもなかった。
綺麗すぎる。いろんな意味で。
もし、成功者の物語として作られた映画として観たら「映画だからな」と私は思うに違いない。いません、こんな人。
全て名言なのだから、また本ブログに登場願おうと思うが、やはり尋常ない覚悟をされていた。
私が、一番印象に残った言葉。
【私も、何本かの十字架を背負って生きています】
そして、違う背景で言われたのかも知れないが、前回のコミュニティvsコミュニティのような、何かをやはり背負われているのだろうか?
【本物のことは、分からない】
が、この言葉だけは数日たった
今も、耳から離れない。
【私も、何本かの十字架を背負っています】
なんという覚悟なのだ、と思った。
十字架では、重すぎないか?
別の言葉で、
置き換えられないだろうか?
私が背負うのは、なんだろう?一晩、考えて置き換えた言葉は、やはり、
こんな表現だった。
私は「地獄」を背負って生きる。
だけど、それさえも、、、
【本当の事は、分からない】
iPhoneからの投稿
について、書いた。
正直に、率直な「私」の意見を言えば
「なぜ、諍いをするのか分からない」
エネルギーの無駄遣い。
足の引っ張り合いをしていたら、ヘッポコ政治家と同じではないか?
と思う。
チーチーぱっぱをしたいのなら、そういったカテゴリーに属するしかない。
少し前のブログで、現代は
「競争社会」ではなく
「協調社会」であると述べた。
めんどくさいので、レッド・オーシャンやら何やらを持ち出す必要もない。
そーいう事が好きな人は、そういうグループや、カテゴリーに行けばいいだけのことだ。
以前、メンターに初めてあった頃、
私は、こう言われた。
邪念や雑念にまみれていた時の頃。
「サトーさん、
もっと明るいほうをみて!!」
「クリーンなイメージをして物事を見なさい」
「今のあなたは、私たちのような穏やかな、こころの平安からほど遠い状態だと思いますよ。」
本物の成功者というのは、脳科学や心理学の尺度では計測不能なほど、綺麗すぎる「超越した」マインドを持つ方が多い。
それだからか同時に、精神医学や精神病理学の定義で解釈すれば、いわゆる「過剰適応」といえるほど、とてつもない仕事量を、とてつもないスピードで、一気に片づけてしまう。
私から言わせて頂くと、病んでいるのは、製薬会社や政治の利権にまみれた、稼ぐ力もない医師のほうだと思う。
珍しく厳しい内容だが、事実だから仕方ない。
社会構造や組織構造に対して、変革を促す、という意味での慈愛から来る怒りは、常に正しい。
なぜなら、それこそが
「社会的正義」だから。
メンターには、こうも言われた。
「本当に、おかしいのよ、この世界って。私たちのような、働く必要のない人ほど200倍くらい仕事してるの」
「もっと働かなくてはならないはずの人たちが、悠々と遊んでるの」
「面白くて、優しくて、知識もある
あなただって、そうなのよ。」
「それだけのことを分かっているのになぜ、やらないの⁈」
返す言葉が、無かった。
その時の、私には。
さて、先日2013年度前期の夕学五十講
に参加して来た。5月21日。
講師は、経沢香保子さん。
私は、本講座を過去10年間50回は受講して来た。
間違いなく、BEST3に入る方だ。
口から発せられた言葉は、全て名言だった。大きなスクリーンに映し出された美しい表情は、0.1mmもブレがなく全く嘘がない。
嘘や、借り物の知識や、言葉はすぐに非言語に表れる。
無意識の表情や、普通なら仕草に表れる、
嘘をつくと。
それが、一切なかった。
一語一句が、全て経験に根ざした言葉だから、寸分の狂いもなかった。
綺麗すぎる。いろんな意味で。
もし、成功者の物語として作られた映画として観たら「映画だからな」と私は思うに違いない。いません、こんな人。
全て名言なのだから、また本ブログに登場願おうと思うが、やはり尋常ない覚悟をされていた。
私が、一番印象に残った言葉。
【私も、何本かの十字架を背負って生きています】
そして、違う背景で言われたのかも知れないが、前回のコミュニティvsコミュニティのような、何かをやはり背負われているのだろうか?
【本物のことは、分からない】
が、この言葉だけは数日たった
今も、耳から離れない。
【私も、何本かの十字架を背負っています】
なんという覚悟なのだ、と思った。
十字架では、重すぎないか?
別の言葉で、
置き換えられないだろうか?
私が背負うのは、なんだろう?一晩、考えて置き換えた言葉は、やはり、
こんな表現だった。
私は「地獄」を背負って生きる。
だけど、それさえも、、、
【本当の事は、分からない】
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