この記事は、8月11日にアメンバー限定記事として投稿したものに、若干の加筆修正を加えて公開するものです。

 

 

Part 1からの続き

 

林優里さんの死も、小島ミナさんの死も、私は「安楽死」とは呼びたくない。

「安楽死」という表現は、「易にをしてぬ」と捉えられかねないからだ。

お二人の死は、決して「安易」などではなく、悩みに悩んだ末に、お二人それぞれの生きざまから生じた「尊厳」を守るために、死を選ばざるを得なかったのだと思う。

これは紛れもなく「尊厳死」と称して良いものである。

いや、これらを「尊厳死」と呼ばずして何が「尊厳死」だろうか。

 

しかしながら、日本尊厳死協会の定義、即ち、『延命治療を差し控え、充分な緩和ケアを施されて自然に迎える死を「尊厳死」』、『「安楽死」は積極的に生を絶つ行為の結果としての死』、が一般的にはまかり通っており、誤解や混乱を招く恐れがあるために、この投稿においては心外ながらこの定義を元に話を進める。

 

但し、「充分な緩和ケアを施されて」と言う、恣意性を含んだ曖昧な部分は定義には含めない。

 

 

ここに、「ALS患者の心理 -人工呼吸器装着の意思決定-」と言う大変興味深い論文が有る。

 


http://www.kamagaya-hp.jp/center/kc_mind/ronbun/60_10637-643.pdf

 

これは、ALS患者19名(内、人工呼吸器(以下「呼吸器」)をつけている、もしくはつける意思表示をしている患者が6名。)に、呼吸器装着の意思決定要因とその心理的背景などについて、2002年7月から2006年2月に渡って面接形式の聞き取り調査を行ったものである。

 

呼吸器をつけるかどうかは、前出の定義で言うところの「尊厳死」を選択するかどうかである。

 

興味深いのは、呼吸器をつける判断に至った最多の理由が、「死・苦痛への恐怖」であったことだ。

「死に至るまでの呼吸苦が怖いから呼吸器をつける」と言うことだ。

中には「苦痛は怖いが死は怖くない」とハッキリ言う人も居たようだ。

何らかの方法によって苦痛が取り除かれれば、呼吸器はつけなくても良いということになる。

 

「死生観」に関して、「生きることが前提」と考えている人は、迷うことなくつける判断をする。

人間は、何十億年も生存し続けている生物の中の、現在まで生き抜いている数少ない種の一つなのだから、どんな手段を講じても生きること、そして命をつなぐこと、が当たり前と考えるDNAが脈々と受け継がれていることは理解できる。

 

一方、「自然な呼吸停止=死」と考えている人はつけない。

「死」を「息を引き取る」こと、自然かつ運命的なものと考え、それを人工的に引き延ばす行為に抵抗を感じる人達だ。

 

人工的に呼吸を続けることを、どう捉えるかの違いだろう。

 

つけていない人や、既につけた人の何人かは、呼吸器をつけて生きることを、「生かされた状態」と認識している。

「生かされた状態」を「(自らの意思で)生きている状態」と考えるかどうかもその人次第。

 

「自己イメージ」と分類されたカテゴリーでは、自分がこうでありたい(あるべき)と思っている姿と、次々と身体能力を奪われていく現実の自分、更に呼吸器に生かされた自分の姿との乖離、が問題とされている。

 

自分の理想像とも言える罹患前の、そしてそれを超える可能性もあった「自己イメージ」を、出来ることが限りなく限定された現実の自分に、そして更に病気が進行して、意思表示も出来ず、手足を動かすことも、栄養摂取・排泄処理・呼吸管理までもを他人に頼らなければならない将来の自分の姿に、アジャストするのは簡単ではない。

言い方を変えると、自分が思ったような自分でなくなっている現実、更に思ったような自分自身のイメージが日に日に、そして確実に乖離していくことを受け止められるかどうか、と言うことだ。

 

人によっては受け入れ難いものだろう。

特にある程度社会でそれなりのことをやっていた自負のある人達にとっては。

恐らく、小島ミナさんや林優里さんはこのギャップに悩まれて、最終的に受け入れられなかったものと推察する。

 

 

この分析には含まれていないが、データから見ると呼吸器を装着しないと結論づけた人は、発症から判断までが短期間の(急速に病気が進行したと思われる)人が多いのに対して、発症から判断までの期間が長い(比較的進行が穏やかと思われる)人は呼吸器の装着率が高いことが見て取れる。

 

比較的進行が穏やかと思われる人は、時間的猶予が有ったために、「自己イメージ」をある程度現実の自分にアジャストし易かったこと、がその理由ではないかと邪推する。

加えて、呼吸器の装着後もある程度は病気の進行に煩わされず、これまでと同様に生きられるかも知れないことと、その間に特効薬が開発されるかも知れないことを、期待し得えたからではないかとも思われる。

 

 

神経難病患者は、進行速度の差はあれ日々確実に身体能力が失われていく。快復はおろか改善の希望も皆無(少なくとも現段階では)。

その状態でいつ終わるともしれない「生」。

それが「尊厳のある生」と言えるのだろうか?

 

皆さんは、Part 1で取り上げた「難病患者でも生きられる環境を整えること」や「生きるための励まし」が、状況を変えることになると思われるだろうか?

 

Part 3に続く。