この記事は、8月14日にアメンバー限定記事として投稿したものに、若干の加筆修正を加えて公開するものです。

 

 

Part 2からの続き

 

Part 2で紹介した「自己イメージ」

言い方を変えるなら、「自分の人生かくあるべし」と言う強い思い。

それこそが「尊厳」と言っても過言ではないと思う。

本来は、それを守るための「死」こそ「尊厳死」と呼ぶべきものだと思うが、混乱を避けるため、ここ以外では引き続きPart 2で紹介した、日本尊厳死協会の定義を使うこととする。

 

小島ミナさんや林優里さんは、それぞれが抱いていたであろう「自己イメージ」(即ち彼女らそれぞれの尊厳)と、現実もしくは将来の自分の姿とのギャップに耐えられなかったのだと思う。

 

神経難病患者に合法的な「尊厳死」の選択肢があるのかどうかは後段に譲るが、何れにしても「尊厳死」のタイミングではそのギャップが開きすぎてしまうとか、スイスまで行く身体能力の限界を考えてとか、尊厳死に至るまでに予想される苦しみを避けたいとか、色々な事情が想像はできる。

それぞれの事情で「安楽死」の道を選ばれたのであろう。

 

念の為に確認しておくと、私は無条件に安楽死を肯定するものでもなければ、神経難病患者がより良く生きていくための議論を妨げようとするものでもない。

また、各自の「自己イメージ」は人それぞれであり、「自分の人生かくあるべし」などと、考えたこともない人も居るだろうことも理解している。

 

そして、「自己イメージ」が時間の経過とともに変わっていくものでもあることも。

Part 2で、『発症から判断までの期間が長い(比較的進行が穏やかと思われる)人は呼吸器の装着率が高いこと』に関して、『比較的進行が穏やかと思われる人は、時間的猶予が有ったために、「自己イメージ」をある程度現実の自分にアジャストし易かったこと、がその理由ではないか』と推測した。

 

私事を申し上げるなら、最初の検査入院で「進行性の神経難病で治療方法は無い」、と宣言されてから10年も経った今になって、漸く”今日をゼロにリセット”することに気付き、”楽しんだ者勝ち”の”新境地”に至っている。

これには時間がかかったし、だからと言って尊厳を捨てたわけでもない。

「自己イメージ」のハードルを、ほんの少し下げただけだ。

 

 

話をもとに戻す。

 

私がこれまでに知り得た情報が正しいと仮定すれば、少なくとも小島ミナさんと林優里さんは、それぞれの気高き尊厳を守ると言う確固たる信念のもとに安楽死を選ばれたのであり、その死に関わった人達が罪に問われる様な法制度であってはならないと信じている。

そして、彼女らのケースが全く問題にならないようにする為には、神経難病患者の選択肢を広げる為の適切な法整備が必要だと考えている。

 

林優里さんの件では、幇助者が主治医ではなかったとか、幇助者の思想的背景がどうたらとか、本筋とは関係ないことがマスコミに取り上げられている。

 

現行の法制度において、且つ「東海大安楽死事件」において横浜地裁が下した判例が存在し(法律でもなければ最高裁判決でもない判例に、どれだけの効力があるのかは不明だが)、一つでも間違えれば医師免許剥奪どころか実刑を食らう現状で、主治医を含む一般的な医者が協力するはずがない。

 

主治医は主治医変更すら拒否したと言う報道があった。

そんな権限が医者にあるのかどうかは疑問だし、もし仮に有ったとしたら、その患者の生死は「主治医」の主義や信条、若しくは患者に対する感情などによってのみ決められてしまう。

万が一にも、患者本人の意向が無視されて、一人の医者に患者の生死が委ねられるなどということは許されない。

 

一般的な医者が協力しにくい状況下で、世間の一般常識からは外れた人達しか協力し得なかったのは必然だ。

それが問題だというのなら、どんな医者でも躊躇わずに協力できる法制度に変えればよいのだ。

 

肝心なのは、神経難病患者本人が「尊厳」を守るために「死」を強く望んでいたかどうかであり、幇助者は、患者に苦痛を与えずに実行できる能力を有することだけが条件であるべきだ。

 

どんな医師でも必要に応じて協力してくれる法制度が整ってさえいれば、小島ミナさんも「今この時を逃したらスイスに行く身体能力すらなくなる」と切羽詰まることもなく、今もお姉様方や外部のサポートの元に、含蓄とウィットに富んだブログを続けておられたかも知れないのだ。

 

私は、一足飛びに安楽死の是非を議論するのではなく、神経難病患者のQOL向上と、将来的には尊厳死につながる、神経難病患者に対する緩和ケアの環境整備の必要性から議論していってはどうかと思う。

 

2014年に書かれた「筋萎縮性側索硬化症の緩和ケア」によると、WHOが『緩和ケアは癌には限らない』言っており、英国でも緩和ケア確立当初から神経難病がその対象となっていたにも関わらず、日本においては未だに”緩和ケア=癌”と言う考えがはびこっている。

 

日本ホスピス緩和ケア協会のHPには、

『ホスピス緩和ケア病棟の利用対象となる患者さんは、現在の保険診療上は「主として苦痛の緩和を必要とする悪性腫瘍の患者又は 後天性免疫不全症候群(エイズ)の患者」となっています。従って現状では、その他の病気での利用は困難となっています。
難病等の病気については、専門病棟を設置している施設もありますので、病院のソーシャルワーカーや都道府県の保健所等の行政相談窓口にお問い合わせください。』

となっており、2014年当時とあまり変わっていない。

 

民間の施設では、神経難病患者を受け入れてくれるホスピスも存在しているようだが、そこで尊厳死や延命治療の中止をしてもらえるのか、そしてそれが法的にどう判断されるのかは不明である。

 

先ずは、神経難病を広く一般的に(勿論医療保険対象としても)緩和ケアの対象として貰う必要がある。

そうなれば、神経難病患者も癌患者と同様に安心して緩和ケアを受けることが出来て、その先に終末期医療における尊厳死(延命治療の中止を含めて)という選択肢が確保できる。

一旦呼吸器を装着しても、患者が望めば取り外せるとなれば、もっと装着率が上がるかも知れず、そこで新たな生き方を発見できるかも知れない。

「自己イメージ」を変えるのに必要な時間も生まれるかも知れない。

 

終末期医療については厚生労働省がガイドラインを策定しており、「痛みや不快な症状を緩和し、精神的・社会的な援助も含めた総合的な医療・ケアを行うこと」、「多職種のチームによる判断」などを条件に、医療行為の差し控えや中止を認めている。

 

ここには『癌患者のみ』と言う制約はないように見えるが、その手前の「緩和ケア」に神経難病が含まれていないなら、自動的に除外という扱いになることが危惧される。

 

また、「多職種のチームによる判断」の中には、「余命」と「肉体的苦痛」と言う条件が付随してくる可能性が高い。

そして、今後の「安楽死」の議論でもこれが問題となり得る。

 

神経難病は癌と比べて余命予測が難しいという問題があるからだ。
癌でも、余命3ヶ月と診断された人が5年後もお元気にしているなどと言う話はよく聞く。それも大部分の身体機能は保ったまま。

 

一方、神経難病は余命予測が難しい上に、仮に余命予測が出来たとして、そしてそれより長生きすることは有ったとしても、その間に確実に身体機能は奪われる。

 

「終末期医療」の必要性がより高いのはどちらだろうか?

 

肉体的苦痛にしても、癌の末期は耐えられないほどの痛みが襲うことは常識となりつつある。痛みがないケースなど存在しないかのようだ。

方や神経難病特有の肉体的苦痛は知られていない。

褥瘡や痰の吸引による苦痛などは、癌のケースではあまり一般的ではないと思われるが、神経難病患者にしてみたら耐えられない苦痛となる場合がある。

しかも、神経難病患者の場合はそれを伝える術の無いことが多いのだ。

 

そもそも痛みや苦痛(精神的苦痛を含む)は主観的な問題であり、客観的判断には適さない。

 

これらを外してもらうか、神経難病は例外としてもらうか、何れかでなければ意味がない。

 

これは「安楽死」においても同じことである。

 

 

Part 4に続く