34 「文鳥と死体」ー神などいない① | エホバの証人(JW)について考えるブログ

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弁護士。元JW2世。1980年代後半13歳バプテスマ・90年代前半高校生で正規開拓者,18歳奉仕の僕・その後外国語会衆・一時的べテル奉仕・2000年代前半大学進学・自然消滅・JWと決別、その後弁護士という人生です。過去の経験を書き綴り皆さんとJWについて考えていきたいです。

ここから先は、エホバの証人のマインドコントロールが解けたのち、しばらくたって経験した「最後の大きな心境の変化」、そして「人生観や神の存在についての自分の考えがどのように確立していったか」について、その「きっかけについての経緯」とともに書いてみたいと思います。

 

 

 

大学を卒業する頃までに、私は日常生活においても、考え方やものの見方においても、完全にエホバの証人とは決別した生き方をするようになっていました。自分の感覚としても、人間関係やメンタル面でのこの団体とのしがらみはすべて断ち切れたと実感する日々を過ごすようになりました。

 

ただそれと同時に、当時の私は、エホバの証人関係者の方たちのために情報提供するサイトを運営していましたので、そうした意味で「エホバの証人」というものとのつながりはある意味存在したのですが、逆に言えば、この団体とはそうした「外からの視点」でのつながりしか持たないようになり、7年間の社会的な時間のハンディがあるということ以外は、実生活においてもメンタルにおいても、この団体からの自分への影響はほとんどなくなっていると感じるようになっていました。

 

とはいえ、幼い時からずっと「自分は死ぬことがなく、将来地上の楽園で永遠に生きる」と教えられ、長い間そう信じてきていましたし、「エホバという唯一真の神が存在し、その神が自分たち人間に個人的な愛情・関心を持っているとか、「この神の主権がやがて立証される、世界はそうした論理・理由で存在する」とか教えられ、これもまた長い間信じていましたので、

エホバの証人の教えは全く信じてはいないものの、どこか「その教えの影響」がまだ無意識に残っていたのか、「明確な死生観」みたいなものを持ってはいなかったですし、「自分がいつか死ぬとき」について意識することも考えることもありませんでした。

 

また、「エホバの証人が教えるエホバ神はいない」と思うようになってはいましたが、「神がいるのかいないのか、神がいるとしてどのような存在なのか」という点については、基本的には「神はいないのだろうし、万が一いたとしても自分には無関係の世界で存在していて自分に影響を及ぼすことはない存在なのだろう」と思いつつも、何か漠然とした、ふわふわした感覚でいました。

 

(今にして思うと、若い学生の時期に明確な死生観を持つ人や、神について明確な結論を持つ人、そうしたテーマについて考える人のほうが珍しいですから、ある意味では当時の自分は本当に標準的な日本人の感覚を取り戻していたのだろうと思うこともありますし、或いは、完全にエホバの証人の教えを退けつつも、心のどこか・考え方の奥底では(エホバの証人組織の個別の教えは信じていないものの)この団体に教えられた大きな概念が漠然と残存していたのかもしれないと思ったりもします。)

 

いずれにせよ、「神がいるのかいないのか」については、この頃、つまりエホバの証人のマインドコントロールが完全に解けたと思う時期になっても、なんとなくフワフワした漠然とした定まらない思いでいました。

 

ところが、大学を卒業した後に、ある「学問」を学び、その「完全に科学的な」学問を通じて、これらの点についての私の考え方はさらに変化し、確立されることになりました。

 

もうすこし正確に言えば、その「学問」を通じてというよりも、その「学問」を通じて「圧倒されるような本当の現実」を目の前に情け容赦なく叩きつけられ、その押しつぶされるような圧倒的な現実をまざまざと見ること、さらには次から次へと見続けることにより、自分の考え方の甘さがすべてことごとく吹き飛び、同時にエホバの証人の教える考えがいかに甘く、いかに危険であるかを再認識し、さらにこうした過程を通じて「神などいるはずがない」と確信するようになった、というのが適切であると思います。

 

エホバの証人であったときには、「世の中に様々な苦しみや悲しみがあることを知り、なぜ神がそのようなことを許しているのかと考えて霊的なことに目ざめ、真理を知ることですべての答えを知って納得し、神を信じるようになった」という話を腐るほど聞かされました。

 

しかし、私個人の感覚をいえば、これは全くの嘘っぱちで、むしろ、現実は逆であると感じるようになりました。

 

「世の中にある様々な苦しみ、悲しみ」のその実態・現実を本当に知るならば、

 

・「この世に愛ある神などいるはずがない

 

・「神などはいないという前提で、人間は一人一人がしっかりとその人生を生き抜いていかないといけない

 

という結論にたどり着くはずであると、少なくとも私個人は確信するようになりましたし、その確信は今も変わりません

 

その、私の人生観を最後に変えてくれた「学問」とは、

法医学

つまり、死体について研究する学問でした。

 

※今回から先に書く内容は、非常に悲しく、非常に衝撃的な内容になるかもしれません。ですので、そうした精神的衝撃が苦手な方、特に、愛する人を失った経験がある方は、読まないでおいたほうが良い内容もあると思いますので、その旨を先にお伝えしておこうと思います。