34 「文鳥と死体」ー神などいない⑤ | エホバの証人(JW)について考えるブログ

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弁護士。元JW2世。1980年代後半13歳バプテスマ・90年代前半高校生で正規開拓者,18歳奉仕の僕・その後外国語会衆・一時的べテル奉仕・2000年代前半大学進学・自然消滅・JWと決別、その後弁護士という人生です。過去の経験を書き綴り皆さんとJWについて考えていきたいです。

このような経験を通じて、組織を去ってから数年を経ていたとはいえ「エホバの証人教理について非常に強く感じるようになった点」について、3つほど書きたいと思います。

 

①復活について

 

まず、司法解剖の場にいて最初に最も強く感じたことは、「復活」などはあり得ない、ありえようがないという決定的な確信でした。

 

世にいる圧倒的大多数の人は、「人のご遺体」を目にすることはないでしょうし、

そうした機会があるとしても、お葬式の「眠るような姿で」棺に入った故人のお姿ではないかと思います。

 

私の場合、初めて司法解剖に立ち会った際には、無残に人体が破壊され、完全に冷たくなり、すでに死後硬直期間も過ぎて分解が始まっていたご遺体に直面することになりましたし、その後、そのご遺体が徹底的にいわば「切り分け」られゆき、「人が人でなくなっていく姿」を最初から最後までその目に焼きつけることになりました。

その場面はまさに「凄惨を極める」という表現しかしようがなく、仮に何も知らずに途中から解剖室に入る人がいれば、即座に卒倒するのは間違いないのではないかという場面でした。

 

そのような、ぼかしも目隠しもまやかしもない「人が死んだ後の本当の姿」、「人が人でなくなってゆく経過」を見るときに、

・「このようにして死んだ方が、どのような方法で『復活』などすると信じられるのか」

・「仮に『復活』するとして、では現に間違いなく亡くなられているこの方のご遺体、この方ご自身はどうなるというのか」

・「この方と全く同じ外見・またく同じ記憶を持った人間がもう一人できるというのか、仮にそうだという説明だとしてもそのようなことが起こりうるはずがない、仮にそうだとしてもこの方が経験した非情な苦しみ、悲しみはどんな方法でも埋めようがない」

と、非常に鮮烈に感じ続けました。

 

多くのエホバの証人、ほとんどのエホバの証人は、

信じられないほど簡単に「復活」などという教理を信じ、

通常ではありえないほどの危険に身をさらしたり、

或いは「人間の死」というものに対して、マヒした感覚・無頓着な姿勢を示します。

 

実際に、「人の死」の現実がどのようなものかを目の当たりにすれば、

なんらの説明もないしかも間違った教理に基づく「復活」などという概念への信仰は、間違いなく吹っ飛ぶものであると、

少なくとも私は感じました。

 

②エホバの証人の発想そのものについて

 

また、「人の死が決して取り返しがつかない決定的なものである」と痛感するにつれ、エホバの証人の教理全体についても、どれだけ恐ろしく危険なものであるについての確信がゆっくりゆっくりと、しかし改めて極めて重くのしかかってきました。

 

人は、遅かれ早かれ、いつか死にます。必ず死にます。

 

そうであるからこそ、一人一人が自分の人生を生き抜き、自分の与えられた時間の中で幸せを積み重ね、そのようにして自分の人生に納得していつか永遠に目を閉じるのが、本来「人」が求める姿であると、私は考えるようになりました。

そして、そうであるからこそ、不慮の死、自然死以外の死を何とか避けるように個々の人間、社会全体、人類全体が気高い努力を続けているのではないでしょうか。

 

こうした考えからしてみれば、「エホバの証人」の教えはまさにこれと真逆であり、「人が本来目指すべき生き方」を真っ向から否定する極めて異常で危険な教えであるということを、鮮烈に意識するようになりました。

 

・エホバの証人は、「現在の古い体制」は間もなくすぎるのだから、すべてのことは「新しい体制」に後回しにするよう教えます。

・そしてその間に、個々の人のもの、ほかのだれのものでもない貴重な人生のすべてを「組織」に捧げるよう教え、誘導し、強制します。

・さらには、輸血の拒否、死に至るまでの忠誠を要求することにより、或いは、歪んだ教えにより自裁に追い込むことにより、文字通り命そのものを奪ってきているのではないでしょうか。

どれだけの人がこの歪んだ巨大な組織に人生の大部分を奪われ、ある場合には、命そのものを奪われてきたのでしょうか。

 

もう一度言います。

エホバの証人は、「現在の古い体制」は間もなくすぎるのだから、すべてのことは「新しい体制」に後回しにするよう教えます。

そして、「その時」はもう間近である、自分たちが生きている間に来る、と保証します。

 

しかし、人は必ず、絶対に、死にます

 

・ラッセルは、紆余曲折の後、最後は「自分たちは死ぬことなく1918年に天に行く」と自信満々に言い切り、教えました。

しかし彼自身は、その前の1916年に汽車の中で死にました

そしてこの時の彼の教えは、今はエホバの証人自身により葬り去られています。

 

・ラザフォードは、紆余局の後、最後には、「自分たちは死ぬことなく1941年か翌年に天に行く」と自信満々に言い切り、教えました。

しかし彼自身は、その予言の最中の1942年1月に癌で死にました

そしてこの時の彼の教えは、今はエホバの証人自身により葬り去られています。

 

・ネイサン・H・ノアやフレデリック・フランズたちは、「自分たちは死ぬことなく1975年に天に行く」と自信満々に言い切り、教えました。

しかしこの予言も外れ、ノアはその2年後、フランズはその17年後に、恥をものともせずに死にました

そしてこの時の彼らの教えは、今はエホバの証人自身により葬り去られています。

 

・旧体制の統治体(1977年までに任命された成員)は、「1914年の意味を理解した世代が死に絶える前にこの世は終わる」と自信満々に言い切り、教えました。

しかし、この予言は成就せず、2010年までにこの連中は全員死に絶えました

当初の彼らの説明によれば、「この世代は」現在の2020年には121歳になるはずで、彼らが大声で言っていた「この世代」はすでに過ぎ去りました。そしてこの彼らの教えは、今はエホバの証人自身により葬り去られ、奇妙で合理性のかけらもない「2つの重なる世代」の教えに入れ替えられています。

 

・「2つの重なる世代」の教えを考え出した新体制の統治体のうち、ガイ・ピアースは2014年に死にました。

ほかの連中、比較的歳の若いマーク・サンダーソン、ジェフリー・ジャクソン、ケニス・クックも必ず死にます。必ず死にます。

そして、これらの連中よりもはるかに高齢ではるかに経験のある多数の「大群衆の信者」はさらに大量に彼らよりもずっと早く死ぬでしょう。

 

いったい何度、このような欺瞞を繰り返すのでしょうか。

 

そして、その間に、何人の人、何十万人何百万人の人の人生を、この組織が奪い去るのでしょう。

「いつか必ず死ぬからこそ、幸せで輝いた人生を生き抜くべき一人一人の人生」を、いったいいくつ踏み潰し続けるのでしょう。

 

そう考えずにはいられません。

 

※続きで「③輸血拒否について」を次回書きます。