34 「文鳥と死体」ー神などいない④ | エホバの証人(JW)について考えるブログ

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弁護士。元JW2世。1980年代後半13歳バプテスマ・90年代前半高校生で正規開拓者,18歳奉仕の僕・その後外国語会衆・一時的べテル奉仕・2000年代前半大学進学・自然消滅・JWと決別、その後弁護士という人生です。過去の経験を書き綴り皆さんとJWについて考えていきたいです。

こうした「様々な非業の死」に数多く直面し、その時その時に自分が感じたことを書きたいとおもいます。

 

(※同じことを繰り返します。ここに書く内容は、法医学の教育内容につき事実を書き記す内容、そしてその内容から「人生をどう考えるべきか」についての考えを書き共有する内容ですので、アメブロ規約に違反するものではないと考えます。とはいえ、読む方の状況により衝撃を与える内容になる可能性があるものといえるかもしれず「人の死」というものについての情報に触れたくない方はお読みにならないことをお勧めします。)

 

【法医学を通じて感じたこと】

 

〇自裁

 

法医学においては、「自殺(自裁)による死か他殺による死か」という点がすべてのスタートになりますので、本格的な講義に入って最初に学んだのは「自殺(自裁)」についてでした。

 

自裁される方は、そのほとんどが人生の最後の瞬間、通常の精神状況ではないため、

「なぜこのような場所で」「なぜこのような方法で」と思うような場所や形でこの世を去る方が多くおられました。

そうした、ある意味異常と思える場所で、ある意味普通では考えつかないような方法で自ら自裁した方の亡くなった後の姿を現に目にし、その方の最後の服装や持ち物などを目にするときに、そこから伝わってくるものは、まさに「底知れぬほどの深く悲しい絶望」でした。

人は、死にたくて死ぬ人はほとんどいません。自裁する方であっても、死ぬことは恐ろしく、とてつもなく嫌なことですが、それでも「死」という一番いやなものよりもなお生き続けることのほうがさらに辛いために自裁を決断され、そうした人生最後のあまりに悲しい決断に至る場合が少なくありません。

 

この世を去れらた後のご遺体の姿を見るときに、

そうした「圧倒的な深い絶望」がいやおうなしに強烈に伝わるとともに、

そのような最も悲しい決断に至ったそれまでのその方の人生の苦しみ、悲しみを考えると、表現のしようのない強烈な感情に押しつぶされそうになりました。

 

〇その他のあまりに深刻な事実

 

さらに法医学は、「人の死のメカニズム」について学ぶ学問ですので、

およそもっとも苦しくない亡くなり方と同時に、「最も苦しい亡くなり方」「最も苦しい死因」についてもいやおうなく学ぶことになります。

そして実際に、そうした「最も苦しい亡くなり方」をされた方のご遺体と直面することもありました。

 

さらに言えば法医学は、「他者から命を奪われたケース」を対象にする学問ですので、

そうしたおよそ最も苦しい亡くなり方をする前に、凄絶としか表現をしようがないような経緯にさらされたたうえで、さらに最後に命を落とされた方のご遺体にも直面することになりました。

 

・いったいこの人が何をしたからと言ってこのような他界の仕方をしなければならないのか

・いったいどのような理由があったら、このような他界の仕方が許されるというのか

そのように感じさせるケースに何度も何度も直面しました。

 

〇司法解剖

 

机上の講義だけでなく、実際の司法解剖に立ち会ったときに、自分の人生観は非常に大きく変化しました。

 

つい少し前まで話し、笑い、日常の何気ない一つ一つの小さな出来事に幸せを見出し、普通の生活をしていたであろう方が、

冷たく物も言わないご遺体になり、そして二度と以前の姿に戻ることは絶対に不可能な状態で、死後硬直し、腐敗や分解が開始し、そのような状態で目の前に横たわる姿を想像できる人は少ないと思います。

そこに立ち会うだけ、それだけでも「救われない非常に深い感情」に飲み込まれることになります。

 

現実のご遺体に面会するその事実だけをもってしても経験のない感情が押し寄せますが、

「司法解剖」が実際に始まると、死因を特定するためにまさに「徹底的な」解剖がなされ、さらに別の圧倒的な感情に飲み込まれます。

 

私が初めて立ち会った司法解剖は、開始から終了まで実に13時間に及び、その間、座ることも食事もとることも、休憩することも許されず、徹底的かつ執念とも感じられる姿勢で、複数の医師が全力を注いで死因の特定に全精力すべてをささげていました。

 

司法解剖ですので、当然のことながら、ご遺体の体のすべては科学的手順に従いありとあらゆる部位が取りだされてゆき、時が進むにつれて、みるみる「人が人でなくなってゆく」過程とその瞬間瞬間をまざまざとこの目で見ることになり、そこで起きている事実の底知れぬすさまじい意味を体感することになりました。

 

〇すべてを通じて感じたこと

 

こうしたあまりにも重大な事実、しかし「そこに現に存在する現実」を何度も何度も目の当たりにしました。

その具体的な内容を全て書ききることなどできないですし、また、そうすることは適切ではないと思いますが、

こうした経験を通じて、自分の心と思いに克明に刻まれたことがいくつかありました。

 

・その一つは、「人はなんとあっけなく死んでしまうのか」という点についての事実でした。

ついさっきまで話し笑っていた人がみるみるうちに急変し亡くなるケースや、危険な場所に足を踏み入れてすぐに亡くなってしまうケースなどが世の中には非常に多く存在します。

シートベルトさえしていれば助かった命、歩いている場所が数メートルずれていたら助かった命、交通機関に乗るのが10分ずれていたら助かった命、そうした命が失われるケースも多く知りました。

どれほど短い時間の大量出血で人は助からなくなるのか、どれほど小さな温度差の中でしか人は生きられないのか、どれほど短い時間の酸素供給の停止で人は生きられなくなるのか、そうした「現実」を知ることで、人の死がいかに簡単に引き起こされてしまうのかという点が、極めて重い事実として心と思いの中に残りました。

 

・もう一つは、あまりに当たり前のことですが、人の死がどれほど重大であるかという点であり、決して取り返しがつかない決定的なものであるという点についての圧倒されるような現実感が思いと心の中に強く刻み込まれることになりました。

 

※こうした経緯を通じて、「エホバの証人教理について考えたこと」、そして「神の存在について考えるようになったこと」を次回以降書きたいと思います。