2017年6月読書メモ(大豊作) | あざみの効用

あざみの効用

或いは共生新党残党が棲まう地

 

 

「人工知能は天使か悪魔か2017」にて既にアメリカでは仮釈判断で一部の州で取り入れられ再犯率10%減とか、人材派遣業における辞めそうな気配を察するなど着々とAIは高度知的産業でヒトに取って代わりつつある。羽生三冠が述べておられたようにAIの導入は避けるべくもないが、AIは判断理由を示さない、即ちブラックボックス化していくことをどう捉えるかが問題となる―冒頭のAlphaGo同士の対局など見てもさっぱり理解できない次元に到達している―。ちょうど同番組のナレーションが林原めぐみだったこともあり、マギシステムのように、あるいは将棋の文殊システムのようにAI合議制でもって担保するのではないかとぼんやりと思う今日このごろ。

 

 早くも今年最高の1冊と断言!ここ3年の著作「だれもが偽善者になる本当の理由」「暴力の解剖学 神経犯罪学への招待」「土と内臓」と読んで正しく「腑に落ちた」ことは、進化理論が一層と拡張されたということ。その過程で正にかつて愛読した「自我の起原」「「魍魎の匣」の一節のように人体が外に開かれていく、、、このビジョンが降りてきたときに身が震えた。

 具体的には、脳自体も進化の産物であるということ(前頭葉、側頭葉、大脳皮質etc)、そして進化の過程で得た脳の機能は時宜に応じてその能力を発揮する。ここに自我同一性は失われる。次にその進化に影響を及ぼした主体は、ヒトマイクロバイオーム(微生物相)であるということ。人の体内に棲まうDNAの9割以上は人類のDNA起因ではなく、腸内細菌群―。

 そしてこの書が教えることは、ミミズを見ればわかるように、脳より腸が先にありき。腸は脳内化学物質を作り出し脳に直接的に影響を及ぼす。それだけではなく、猫由来のトキソプラズマもおそらく3人に一人は脳内に蠢く(統合失調症がヨーロッパ史に登場するのが猫の飼育と軌を一にしているという示唆も語られる)。もはや自由意志というものは、人体内細菌群がお互いの生存確認を高めるための統合機関、国会程度の地位に成り下がる。

 神経寄生生物学、精神神経免疫学こそが、もしかするとグランドセオリー足るのではないかとそう予感させる一冊(そしてこの書の長い手はヒトの有する嫌悪感は衛生観念に由来し、それこそ宗教に代表される文化もまた含まれる―)だが、エメラルドゴキブリバチの逸話など単発Episode集として楽しめる。

 ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランス、アメリカ、ベルギー、、、その末尾として日本まで含まれるが、一国ごとに植民地化の歴史を丹念に追う。その過程で植民地・帝国主義全盛期前にウィリアム・ペティやフランソワ・ケネーの植民地採算性への疑義(資本の輸出は本国への投資を犠牲)なども挟まれる。この点は石橋湛山の小日本主義を彷彿とさせる。ただし、諸国事情はあれど、随所に見られるのは社会生物学的な発想であることは抑えておかなければならない。20世紀はマルクスの世紀と語られることはあるが、その意味で言うとダーウィンの世紀は前著含め延々と続いている。

富国と強兵 富国と強兵
 
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 制度経済学、粗く言うと言語と金融(集団・国家ありきの個人)に基づく整理。国家という枠内におけるゴーイング・コンサーン(=一定の方向や傾向をもった運動)の制御が主眼。

 この本も超絶オススメ、言いたいことは現在は各種指標に左右されているが、その指標の由来、成り立ちを知ることで限界をしること。当著曰く「1950年代の地図」で政治算術が右往左往されていることを相対化すること。まさに、現在日本もGDP改訂が遡上にのぼっていることもありタイムリーな一冊。消費者物価指数や、消費者信頼感指数など作られた当初よりも今のほうが影響を及ぼすようになった指標については策定時の限界論を知ることが大事だと教えてくれる。…当著は指標を捨てろと言っているわけではないので、日本語タイトルは少し語弊がある。

 プライバシーを巡る議論の整理、そもそもプライバシーの定義一つとっても、情報収集+情報処理+情報拡散+侵襲まで含むことへの合意が必要。そしてこれからの時代においてはあまり議論になっていない情報処理に関する思考が必要と知らしめる一冊。

 「国民の幸せを祈る人」(女性自身松崎敏弥氏)という言葉に尽きる―ただただ頭が下がるのみ。

 この書の魅力はこの画像ではわからない。実際に書店で手にとって爆笑して欲しい。新書と称していながら750ページで普通に立ちます。内容も通俗な武田勝頼像を一新するものとなっている。私は複雑な外交関係(甲越和与、甲佐同盟、甲江和与)及び、御館の乱の当初は家督争いではなかったということが新鮮な驚きだった。

 この本については色々と言いたいことはあるが、それを書くには余白が狭すぎるというか時が経ちすぎたというのが正直な気持ち。ただし、どうしても一点だけ記すとすれば、北田暁大は「あのとき」本当にこの書で書いているような言動を生み出していたのかね?今になって後藤和智氏という権威を借りることで都合いい歴史修正、切断操作を行おうとしていないかという強烈な違和感が残った。