結果主義が色んなところに影を落とす
そもそも結果主義とは何かというと、
いつも使っている図の上の方でしか考えない傾向性の事だ
「世界」が有り、「思い」が有り、「行い」が有り結果が出るという流れの
この3か所の「行い」の所を中心に見てしまう事
これが、今、話題の統一教会の問題や創価学会、オウム教などの邪教の中にも現れている
ようするに「課題」の所に宗教を入れて考えると
この邪教に取り込まれている人達も結果主義に取り込まれているという事。
この結果主義の問題点は、「世界」を正しく見れない事で結果を導き出す原因の所で「思い」の所でなく「行い」の所ばかりで見てしまうことだ。
要するに悟りという世界と無縁な為に起きていること。
統一教会の件で言うなら、間違った世界観を入れられることで、献金さえすれば先祖も自分たちも救われると思い込んでいる。
献金の多寡や、何かを買ったりすれば、救われたり何らかの結果につながると思い込んでいるのだろう。
これに関しては、釈迦仏教の「貧者の一灯」という仏言を知らないことが原因にある。
要するに金額の多寡でなく「思い」の純粋さが言われるのだ。
さらに言えば「三輪清浄」の教えが有る。
施者、施物、受者、この三つが濁りなく清らかでなければ布施は成り立たない。
深く考えれば当たり前のことだけれど、結果ばかりを見つめれば狂ってくる。
これを仕事に当てはめると、所得を得るために「思い」の中身まで考えなくてもよくなる。他者のお役に立つことで価値が生れ利益が出るという因果関係が無視されてしまう。
何かをしさえすれば儲けが生れると考えてしまう。
この考えが行き過ぎると騙しても強引に奪ってでも利益を出せば良いという考えにまでなってしまう。財務省の、税金を掛ける所を増やしたり、税率さえ上げれば税収が増えると思い込んでいるのも同じことだ。
宗教で言えば、その信仰に入りさえすれば、金さえ出せば、それまでの間違いが許され、先祖が苦しんでいても、自分の来世も安泰となると考えてしまうのだろう。
政治家も自分なりの票集めなどの結果ばかりを見ていると、思いの中身など関係なく、票につながりさえすれば良いと考えてしまう。
これが結果主義、結果至上主義だ。
要するに、一番重要なのが「思い」の純粋さなのだ。
この思いを磨くためにこの世での修業が有る。
この地球では、あの世とこの世が分かれていて、思いの中身が隠せるようになっているのでなんでも思え、そのおかげで悪も思えることになるけれど、逆に善なる思いも鍛えることが可能になるというメリットが有るようだ。
欲さえ強ければ結果を出すことが出来るという流れの中で、その思いの清浄さを維持し強めることが出来るなら、それが結果として実を結ぶことになる。
この実は、死後、魂だけになったときに明確にその魂の実績として残るようだ。
その実績こそ、神は願われている。
私たちの魂の親である創造主が願われていることを考えるなら、親として子や孫がどのようになって欲しいかを点検するなら見えてくることだ。
ただ、現代は、無神論、唯物論が広がり基礎的な宗教教育が無視されていることで、大きく蛇行している。蛇行した結果、悪魔の暗躍を許しているのだ。
無神論をはやらせ、邪教をはやらせ、その二つの力を使い本当の正しい宗教の信用を失わさせようとしている。
間違った悟り(世界観)を拡げ、目先の欲を満足させようとしているのだ。