すべて、予定調和 | Yurielのミラクルな毎日のためのスピリチュアルレッスン☆ 
 
 
家のポストに、東京都から亡くなった夫宛に手紙が届いてました。
開いたら、東京空襲犠牲者名簿の登録の手続きの確認でした。
 
夫のお父さんは戦争孤児で、東京大空襲でご両親とお姉さんと、小さなきょうだいが亡くなったと聞いていました。
小さなきょうだいは、お父さんと弟ふたりは疎開していて、ご両親とちいさなきょうだいふたりの世話をしていたお姉さんは東京に残っていて、空襲にあってしまったと。
 
お義父さんは、3年前に亡くなりましたが、生前その時のことは聞いても、遠い目をして沈黙して、語ることはなかったのでした。
本当につらいことは、人は口にできないものです。
だから、夫とわたしも聞くことはなくて、ただ、昨年だったか旅先でテレビをみていたら、上野の戦争孤児のドキュメンタリーをやっていて、お義父さんが、どのような時代をどんな気持ちで生きたのか、なぜそれを口にすることがなかったのか、すこしだけわかったような気がしました。
 
そして、東京空襲犠牲者名簿の登録という制度があると知り、せめてお名前だけでも残してあげたいなと思い、書類を準備して夫に渡しました。
夫はいつも忙しくて「時間がない」という人だったので、ずっとおいたまんまになっていました。
わたしは、お義父さんの親族の名前はわからないし、私たちの家には仏壇がないので自分ではできないなと思っていましたが、ちゃんと手続きができていて、本当に、彼は全部、身の回りのするべきことをきちんとして旅立っていったんだなって思いました。
 
 
 
 
 
実はわたしたちは出会う前(といっても、すでに出会う2年前にとある場所で出会ってましたが)から縁がありました。
 
 
 
知覧特攻平和会館のロビーにある、「知覧鎮魂の賦」という信楽焼陶板壁画。
紅蓮の炎をあげて燃える隼の機体から特攻隊員の魂魄を6人の飛天(天女)が救い出し昇天させる姿を表したもの(知覧特攻平和会館のHPより)。
 
この絵をわたしがみたのは2007年10月のこと。
実の父が是非見せたいということでここにきましたが、通いつめた沖縄でも戦跡はすべて避けてきたくらいですから、その当時のわたしは特攻平和記念館の展示を直視できませんでした。
見学するのがいやで、ロビーでグズグズしていたら、大きな壁画が目に入りました。
 
わたしは、この天女をみて、自分自身の過去のなにかが重なり合い、とても不思議な気持ちになりました。
こうして何人も何人もの若者を、来る日も来る日も助け上げたなぁと思ったのでした。
 

 

 

 

まだ出会う前の彼も(実は、2007年の7月7日にわたしたちは、とある場所で出会ってました)、この年、知覧を訪れていました。

こちらでこの年、特攻隊員の方々が遺された手紙をまとめた本をフォトブックで出版されて、その写真が彼のものだったことがきっかけで、この地を訪れたのだそうです。

 

そして、わたしが天女と重なり合わせたその絵の前で、彼は自分を特攻隊員と重なり合わせて号泣したと言っていました。

その様子があまりにも不思議だったので、係の人が「どうしたのですか」と声をかけてくださり、「実は本が、、、」ということで会館の方によくしてもらった、という話はきいたことがありました。

 

なんども近くにいくことはあったのに、結局一緒には行けずじまい。

 

 

 

 

彼が亡くなったあと、実家から手元にわざわざ持ってきていた資料の中に、ひとりの特攻隊員の方の遺書をわざわざ書き写したものがあり、「彼はこの人の生まれ変わりと信じていたのだな」と思いました。

 
生前、自分は「特攻隊員の生まれ変わりのような気がする」というようなことを言ったことがありましたが、そのことについて詳しく私に話してくれたことはありません。
 
「なぜ話してくれなかったのだろう?」
それも疑問で、あるとき近所のご婦人にそのことを聞いてみました。
意外にも、彼女からは「それは当然よ。わたしも主人に言わない」という答えが返ってきて驚きました。
 
「夫婦はある意味でライバルでもあるから、大切なことは言えないのよ」

わたしは、パートナーに限らず隠しごとがないので、意外な言葉に驚きました。

 

でも、「知らない人だから言える」というのは自分自身の仕事もそうですし、そんなものなのかもしれません。
 
12年前の七夕に出会って、12年。
 
今ならすべてのことが全部つながっていたことなのだなと、わかります。
 
彼が北極の地に惹かれていったこと、そしてシロクマ。
物部神社の鎮魂祭からはじまり、そしてなぜか物部の地に連れられていくこと。縁する方が航空隊関係の方ばかりで、
その先に古代からの天文学と三島暦。
 
 
わたしも、彼も同じ絵の前で、過去生をみて、共に旅した10年間。
 
そして、明治神宮のおそばに住まわせてもらうようになって10年。
明治陛下の願いは、世界平和でした。
 
今もその願いは変わらず、あの森が、そしてその森をつくり、育んでいる人が、つないでいます。
 
戦争で亡くなった人たちが、どれほど望んだかしれない、平和で自由な今をわたしたちは生きています。
そして夫も。
 
わたしがまだ生かされていることも、なにか意味があるのでしょう。
そう信じて、今日も精一杯、自由と平和を感謝して楽しみたいと思います。
そして、ひとりでも多くの人と分かち合えますように。