独学で「おかしいな?」と感じるところ(仮説)
(有)おめめどう-自閉症サポート企画 取締役 奥平綾子@ハルヤンネ
ダダ(小6)が3歳9ヶ月の時に「自閉症」と診断されて、通い始めたことばの教室のSTの先生から「どうやら見せた方がいいらしいんです」と助言を頂き、すぐにはじめた視覚的な支援。
半信半疑でしたが、ダダのその頃の様子(道にこだわる、ものを並べる、ビデオのフレーズや場面を繰り返す…)を観察しても、彼が「目で見て」世の中を理解していることはわかりましたので、「言って聞かせる」子育てから「見せて伝える」子育てへの転換しました。
それから、TEACCHプログラムの書物を読んだり講演会に参加するうちに、その考え方が、自閉症のダダを育てることの指針となっていきます。
ダダは、一度も専門家から「TEACCHの療育」を受けたことはありません。書物や講演会、ネット情報…そういったものだけ。おそらく、私とダダのあり方は、多くの親御さんとお子さんが置かれている状況だと思います。
「TEACCHをしてる」と言われ、「TEACCH系カリスマ主婦」というキャッチも頂きますが、私個人的には、ピンときたことはありません。自閉症のダダを支援するためには、家族や学校を含む環境にいるダダ個人とダダに影響を与えている自閉症の特性に添ったものがいい。カードを使うのも、スケジュールをするのも、机に衝立を立てているのも、ダダがこの世界で居心地よく暮らすために、「それ」を必要としているから。ただそれだけ。
今回は、書物や講演会、ネット情報だけで学んできた私が、どうも、こういう点が「日本のTEACCHが、おかしいな?」と感じる代表的な2つをご紹介したいと思います。
5歳6ヶ月の時に、ダダが「選んでいない」ことに気がついて、驚きました。彼は、たくさんのこだわりがあって、いつも自分の順番や好みのものだけをしていましたので、私はてっきり「選んでいる」と思っていました。でも、それは、私たちの「選択活動」とは、全く違う形をしていました。それから「選択」をはじめ、そして、今12歳のダダはあらゆることを自分で「選んで」「決めて」暮らしています。そう、私たちと同じように。当たり前の暮らし。
【その顛末については、『レイルマン2-自閉症文化への愉しみ方-』という本に「ダダくんの選択的生活」という長い物語にしています。TEACCH研内山会長の前書き付。必読!です】
もちろん、こだわりがある、自分の好きことばかりする…でもいいんですけれど、その前に「選択権」というものを無視した形になっているのであれば、やはりそれは、違うと思います。
障害があるだけでも、「選択」は忘れられやすいもの。自閉症の特性からすれば、表出が難しい、選んでいるかわかりにくい、幅を広げにくい…ため、本人の「選択」を無視してしまうことがあります。出会ってきた多くのTEACCHを学ぶ人たちも、それは、同じでした。
何故かな?と考えたとき、「なるほど!TEACCHは、ノースカロライナで生まれたものだもの」とわかりました。アメリカは、個人を重視した国、もちろん自己選択、自己決定が守られる文化を持っています。それで、支援の中にも、「選択」は、当然始めから入っているのです。
アメリカでは、あまりに普通のことだけに、翻訳前の原本に「選択」という記述がなかった。だから、翻訳された日本の文章に、「選択」という文字がなかったこともうなずけます(実際、当時、私が参考にさせて頂いたTEACCH系の書物や講演会には「選択」の言葉は出てきません)。
けれども、日本は、自分で選ばない方が美徳とされることもあるお任せ文化です。だから、記述がなければ、学んだ者が、支援の中に、本人の「選択」について、考えることもありません。
それで、流れている「文化」(マインド)が抜け落ち、「技法」(スキル)だけが伝わってしまい、結果、行き詰まって「日本のTEACCH」は誤解されてしまうんじゃないだろうか?
私は、<あらゆる支援は、本人の選択活動とともになければならない>とさえ思っています。
二つ目は、構造化のこと。ダダへの支援の事始めは、「スケジュール」から、つまり、次の行動の見通しを立てるカードでした。それを並べていって、一日のスケジュールや外出のスケジュールにしていったのです。また、順番を絵で示す…そういう手順書。
スケジュールやプログラム、手順という時間的構造化をしっかりすることが、ダダを安定させる大きなもの。つまり、出来事の「流れ」を視覚的にして「見通し」を持ってもらうことが必要。
でも、物理的構造化も、実は、その場所での「流れ」を視覚的にしたものなのです。だから、本人の動線を考えて配置することも自然なこと。そして、もちろんワークシステムも、事柄の「流れ」を視覚的にしたものです。だから、その本人の身体の「流れ」(動きやすさ)を加味する。
でも、TEACCH系書物での「構造化」の解説は、いつも物理的構造化から始まります(唯一、門眞一郎先生の論文だけが、時間的構造化からです)。それが、物理的構造化が、衝立を立てたらいい、場所を分けたらいいというだけの解釈に留まってしまう、大きなネックになっているのではないかと思っています。それに、支援する側にとっては、物理的構造化の方が簡単に取り組みやすい。また、パフォーマンス的「やってますねん」の罠にはまってしまう。
書物は、専門的なものになればなるほど、始めの数ページは熱心に読むけれど、最後の方はいい加減になってしまうもの。残っていかない。しかも取りかかるとき、最初からしてしまいがち。
それまで「自閉症児って何?」…であった親御さんが、スワッ支援の仕方!と思い読み始める時、その記述の順番(つまり、目次)というのは、理解に大きな影響を与えるように思えます。
時間的構造化の記述が先に来るようにすれば、とっかかりが「スケジュール」や「手順」になり、自閉症の人への支援のベースがしっかり出来るように思うのです。
<すべての構造化は、時間的構造化の亜流である>…これも、私の考えです。
この2つの「おかしいな?」は、もちろん「仮説」です。でも「TEACCHは、なぜ誤解されるか?」という問いかけの、ささやかな回答になる気がするのですが、いかがでしょうか?
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と、考えていたのですね
で、今も、変わらないですね
選択と時間軸やなあ