孫田良平「戦時労働論への疑問」 | 風のかたちⅡ

孫田良平「戦時労働論への疑問」

菅山真治『「就社」社会の誕生』は、戦後の日本的な雇用システムの生成から確立にいたるプロセスを、明治の産業化初期段階から、戦間期、戦時統制期、戦後占領期という大きな流れの中で見ようとする。


「日本的」雇用慣行は、高度成長の時代に突然姿を現したのではない・・・ユニークな慣行や制度を生み出す種子は、西欧からの技術移転を主軸に勧められた日本の産業化過程それ自体の裡にすでに胚胎していた・・・その種子は、産業化のスタートとともに発芽・成長し(日清・日露戦争前後期)、やがて大きなつぼみをつけ(戦間期)、そして苛烈な夏の暑さのなかで開花した(戦時・占領期)。むしろ、1950年代以降の高度成長期は、最後の結実の秋に当たっていたというべきかもしれない。


という史観だ。

こういう一節に触れると、つい、「日本的」雇用慣行の成立に関する他の諸説、1920年代説、戦時期説、近世商家源流説といったものをおさらいしておこうという気持に駆られる。近いところでは、野村正實先生の大著「日本的雇用慣行」第6章にコンパクトな検討があったが、各説の原著にいちいち当たる暇は、浩瀚な菅山本を前にしてありそうにない。そんでもって、つい、菅山本がいう「苛烈な夏」の意義を明らかにしたという孫田良平「戦時労働論への疑問」(日本労働協会雑誌、1965年7月)に手を伸ばしてみた。


「戦時中の労働関係は全くの空白期であったとするのは錯覚」「戦後史の前史となるべき戦時労働論は、この期を単なる特殊期間とみないで・・戦後の運動を潜在的に準備した期間とみるべきであり・・・戦時労働行政・労働立法が戦後に残した影響も・・・評価する必要があろう」

という。問題意識は実に鮮明だ。


昭和40年頃の思想や学問の状況を考えれば、戦時の労働関係について、孫田先生が疑問を呈した次のような見方が当たり前だったのだろうことは想像に難くない。

・「情緒的・物語的発想」

 「治安維持法と国家総動員法のなかで、軍需生産に駆り立てられた労働者は、組合運動も禁止され

 おそるべき労働条件の悪化のもとに、悲惨な状態に陥り、暗い日々を送っていた」

・「公式的図式的戦時労働論」

 「帝国主義戦争と絶対主義支配強化のもとに組織的運動はすべて弾圧され・・・労働官僚は産報運動

 ファッショ新体制運動に地位を求め、労働者階級は完全に窒息化し・・・圧倒的支配の重みは敗戦後に

 至ってもみずから下からの革命の意図を出し得ないほどで・・・民主主義占領軍がようやくこれを指導し

 て民主化への道を開いた」

・「労使関係不在論もしくは非在論」

 「戦時労働を意識的に無視するか、あるいは戦前と戦後の過程であり中間期であるとして検討の余地

 がない」


こうしたステロタイプの認識にたいして、例えば、産業報国会に関する考察をみると、それが官製・上意下達の空疎な機関としての本質を脱することができず、「新国民組織」という狙いとしては失敗に終わったことを認めつつ、戦後につながる遺産として次の要素を取り出している。

-職場秩序を活かして企業・事業所を単位にすれば機械的に民衆組織ができあがるという基盤

 戦前には存しなかった職員・労務者一体の企業忠誠心

 労働者を対象に企業をあげて行うレクリエーション・教養行事

 産報青年隊や同女子部のようなインフォーマルなエリート若衆集団

これらが

「戦後の労働組合新出発にあたって、人々の意識の底の組織の鋳型として残っており、それゆえにこそ職員層が先頭に立って産報当時と同じように職場常会をひらき、企業毎に組合規約をつくり発会式をあげた」とする。

筆者が考察の締めくくりに引用する細谷松太の言葉

「組合は産報の看板を裏返しにしただけで、できてしまったようなものだ」

に思わず頷いてしまう筋立てだ。


産報に対する上のような評価は、戦中期の「進歩的」行政官僚が立案した経済新体制、企業改革構想などが、戦後の職・工一体の労働組合の結成に影響したとする菅山本ともオーバーラップしている。菅山本は、

「戦時統制下の日本では<自由主義>経済体制に対する批判の高まりが存在し・・・知識人の間では立場の左右を問わず<統制>経済の思想が広く浸透し・・・第2次近衛内閣下の<経済新体制>運動のもとでピークに達した」

とし、賃金統制令や重要事業所労務管理令を通じた「職工」の処遇改善が測られ、戦争末期に至っては

「社長から見習工に至るまで勤労者」という観点での職員・工員の一元化(身分差別の撤廃)まで試みられたことなどを、日立製作所日立工場の戦間、戦中期の分析を通じて明らかにしており読ませる。しかし、それと並べてみても、昭和40年という早い時期に戦時期の持つ意味に着目した孫田論文の先駆性は十分に伝わってくる。個人的には、仕事のうえでも断続的にお世話になった先生なのだが、こうした歴史研究の論文をものされていたことに畏敬の念を新たにする。