「ムツゴロウ」畑正憲さん死去 87歳 「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」で人気 北海道で動物王国

スポニチアネックス

「東京ムツゴロウ動物王国」内見会で動物たちと戯れる畑正憲氏(中央、2004年7月27日撮影)

 「ムツゴロウ」こと作家の畑正憲(はた・まさのり)さんが4月5日午後5時53分、心筋梗塞のため死去した。87歳。福岡県出身。北海道の自宅で倒れ、搬送先の同中標津町の病院で亡くなった。葬儀は親族で行う。喪主は妻純子(じゅんこ)さん。

  【写真】犬とスキンシップする畑正憲さん ムツゴロウ共和国での貴重なモノクロのスナップ写真 撮影=1978年7月12日  

関係者によると、畑さんは6年前に心筋梗塞で倒れ、その後は入退院を繰り返していた。最近は自宅療養中だったという。5日に体調が急変した。  

ムツゴロウ動物王国の公式HPによると、畑さんは1935年4月17日福岡市生まれで、54年に東京大学入学 。68年に学習研究社映画局を退社し、本格的な著作活動に入った。71年に北海道厚岸郡の無人島に熊や馬を連れて移住。翌年、浜中町に移って「動物王国」を建国した。77年に「第25回菊池寛賞」を受賞。著書は「畑正憲作品集」「ムツゴロウの青春記」「ムツゴロウの動物交際術」など多数ある。  

大人気となったテレビシリーズ「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」は80年にスタート。北海道で動物王国を作った畑さんと動物との交流をドキュメント風に追った番組で、2001年3月まで20年間シリーズが放送され、30%を超える視聴率を記録するなど人気を博した。  たとえ、ライオンに指をかまれても動物を責めることなく、「ようし、よし」とスキンシップを図って距離を縮めていった。ほほえましい愛情表現でお茶の間の人気も急上昇した。動物と触れ合う様子をパロディーにする番組やモノマネするお笑い芸人や多数出現し「ムツゴロウさん」の名前はさらに幅広い世代に広まった。  動物文学の発展などの功績が認められ、菊池寛賞を受賞。1986年、大ヒット映画「子猫物語」の監督も務めた。

 

「ムツゴロウ」畑正憲さん死去、フジテレビが追悼「残念でなりません」 約20年にわたり『ゆかいな仲間たち』シリーズ放送

オリコン

「ムツゴロウさん」こと畑正憲さんが死去 (C)ORICON NewS inc.

 「ムツゴロウさん」の愛称で親しまれた作家・畑正憲さんが5日、心筋梗塞のため死去した。87歳。訃報を受け、1980年から約20年にわたり『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』シリーズを放送したフジテレビが6日、追悼のコメントを寄せた。

  【貴重写真】孫の俳優・津山舞花と…笑顔で写る「ムツゴロウ」畑正憲さん  

同局は「生涯、動物たちと触れ合い続け“ムツゴロウ”の愛称で親しまれた畑正憲さん。フジテレビで1980年に放送が始まった『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』シリーズは、北海道で動物たちと暮らす畑さんの生活や、世界中の生きものたちと触れ合いを20年以上にわたって描きました」と説明。  続けて「アフリカの保護区では、初めて出会った巨大なアフリカゾウが片足を上げムツゴロウさんにあいさつしてくれたものの体中ダニだらけに。それでも喜んでいらっしゃったムツゴロウさん」とし、

「動物も人もムツゴロウさんにとってはみんな友達でした。ムツゴロウさんの飾らないお人柄や動物たちとの心温まる交流の様子が、幅広い世代から共感を得て人気番組となりました」としている。  最後に「この度のご訃報に触れ、残念でなりません。これまでの多大なご功績に深く感謝申し上げるとともに、謹んで心より哀悼の意を表します」と悼んだ。  

同局は8日午後7時から2時間の追悼特番『ありがとう!ムツゴロウさん』(仮)を全国ネットで放送する。  

畑さんは1935年4月17日生まれ、福岡県出身。東京大学理学部で動物学を学び、学習映画制作などを経て、作家に転身。「ムツゴロウ」の名でエッセイや小説などを多数発表した。一方、71年に北海道に移住して「ムツゴロウ動物王国」を誕生させ、フジテレビ系『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』シリーズが人気となった。

 

ムツゴロウさん、亡くなる9日前の最後のインスタグラム投稿…動物を膝に抱えニッコリ

スポーツ報知

3月27日の投稿が最後となった。ムツゴロウさんの公式インスタグラム(@mutsugoro656)より

 動物との交流を描くテレビ番組などに出演し、「ムツゴロウ」の愛称で親しまれた作家の畑正憲さんが、5日午後5時53分に心筋梗塞のため北海道中標津町の病院で死去した。87歳だった。 【写真複数】亡くなる9日前の最後のインスタグラム 

 ムツゴロウさんは、自身のユーチューブチャンネル「ムツゴロウの656」やインスタグラムも運営。動物と触れ合う様子や生物の不思議について発信を続けてきた。  ユーチューブチャンネルは3月26日にアップした動画が最後となった。犬ぞりレースの世界大会で3連勝を成し遂げた女性、スーザン・ブッチャーさんがムツゴロウさんを訪れた時の話を振り返りながら、約11分にわたって映像化。ムツゴロウさんは「犬と心は通じ合うの?」というテーマで語った。  

インスタグラムは、翌3月27日の更新が最後。スタッフによる書き込みで「昨日104回の656に登場したスーザンブッチャーさんとムツさん。アイディタロッドを走破したときの装備を見せていただきムツさん、うれしそうです」と2ショットを掲載。動物を膝に抱えてうれしそうに笑うムツゴロウさんの思い出ショットも披露されていた。

 

>最後の投稿がこんな素敵な笑顔で、切ないけど、よかった。 モフモフのいきものを膝に抱え、満面の幸せそうな笑顔。 この写真が、彼の人生そのもの。 苦労もおありだったけど、最後まできっと幸せな人生だったんだろうな。 動物とともにあり、動物を愛し、 自宅で倒れられるまで、最後まで彼らに囲まれていたムツゴロウさん。 彼らしい人生の全うの仕方だな、と思いました。 ご冥福をお祈りします。 多くの国民は、ムツゴロウさんの番組をみて育ってきました。 お疲れさまでした、そしてありがとうございました。

 

榎木英介

病理専門医&科学・医療ジャーナリスト

ムツゴロウさんは実は東京大学理学部生物学科動物学専攻卒業で、獣医ではありません。個人的なことで恐縮ですが、私の出身学科の大先輩にあたる方で、学生の中にはムツゴロウさんに憧れて進学してきた人も多かったように記憶しています。 

私が在学当時は、小説にも登場する同級生の教授がいらっしゃり、飲み会の場で学生たちからムツゴロウさんがどんな方だったのか散々聞かれてちょっとうんざりした表情をしていたのを覚えています。 テレビ番組含め、動物に関する関心を高めてくださった、今風に言えば科学コミュニケーターであり、功労者だったと思います。

私たちの世代(50歳くらい)は多かれ少なかれムツゴロウさんから影響を受けていると思います。 心よりご冥福をお祈りします。

 

吉田豪

プロ書評家/プロインタビュアー

ムツゴロウさんは世間の“動物好きの優しいおじさん”イメージとは全然違う、破壊的な面白さのある人でした。むしろ動物の話に飽きている感じすらもあって、05年にボクがムツさんと安田大サーカスとの対談を仕切ったときは、安田団長に「『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』見てました!」と言われても完全スルー。

でも、クロちゃんが麻雀できると聞いた瞬間にスイッチが入って「いまいくら持ってる!」と言い出したり、唯一原稿でカットされたのがムツさんの賭け麻雀のレートの話だったりで最高すぎたんですよ。 ボクが00年にあえてムツさんに動物以外の物騒な話ばかり聞くインタビューをやったときも、案の定ノリノリで動物王国の資金を賭け麻雀で稼いでいたこととか話してまくった結果、単行本掲載不可能に(そのときのNGは雀鬼・桜井章一批判)。でも、そのとき「吉田さんに伝えて下さい。あなたは必ず成功すると」と言われたことは一生忘れないです。

 

>麻雀大好きで、徹マンを続けて、心筋梗塞起こしてペースメーカー入れても相変わらずのヘビースモーカー 最近はテレビに出ることは少なかったけど昔はよくテレビで拝見し、ライオンに指を咬まれて中指を失うといった破天荒ささえムツゴロウさんらしいなと思います よくここまで長生きされたと思います ご冥福をお祈りいたします

 

【追悼】「今は犬1頭と猫1匹だけ…」

借金3億を背負って「動物王国」を閉園したムツゴロウさん(86)が辿り着いた“北海道のログハウス生活”「今は自分が生きていくだけでやっとです」

 

文春オンライン

ムツゴロウさんは現在、北海道の中標津で妻と馬の世話をするスタッフと3人で暮らしている ©️文藝春秋 撮影・鈴木七絵

「ムツゴロウさん」こと畑正憲さんが6日、87歳で亡くなった。北海道の自宅で倒れ、搬送先の病院で死去したという。 【画像】60年以上つれそった妻の純子さんと  1980年に放送が始まった「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」は大人気番組となり、多くの動物番組の“元祖”となった。ムツゴロウさんが最後まで暮らした中標津のログハウスでのロングインタビューを再公開する(初出 2021年11月11日、年齢、肩書き等は当時のまま)。 ▼▼▼  動物が登場する番組はテレビでもYouTubeでも鉄板の一大ジャンルだが、その元祖と言えば“ムツゴロウ”こと畑正憲さん(86)だろう。  ライオンの頭を無防備になで、ワニの口に笑顔で頭を入れる。ライオンに右手の中指を食べられてもまったく懲りる気配すらない。“動物愛”という枠を大きくはみ出した畑さんの生き方は日本中を魅了した。1980年に始まった「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」はあっという間に人気番組になり、平均視聴率は20%に迫った。  

しかしTVシリーズは2001年に終了し、2000年代後半には北海道の中標津から東京のあきる野市に移転した「ムツゴロウ動物王国」も閉園。3億円とも言われる巨大な借金を抱えたが、それもあふれるバイタリティで完済し、現在は40年前に移り住んだ北海道の中標津にある大自然に囲まれたログハウスで生活している。  

トレードマークの黒ブチ眼鏡にやさしい声の“ムツゴロウ”さんは、ゆっくり椅子に腰掛けると、煙草を一服しながら破天荒な人生について語り始めた。(全3回の1回目/ #2 、 #3 を読む)

現在は大型犬1頭と猫1匹と一緒に生活

ムツゴロウ よくこんなところまで来てくれましたね。東京からですか? 家族以外の方と話すのも久しぶりですよ。もう隠し事もありませんから、何でも聞いてください。年のせいか、すぐに忘れちゃうこともありますけどね(笑)。

 ――今日はお時間いただきありがとうございます。お元気そうで安心しました。

 ムツゴロウ あ、僕はタバコをたくさん吸いますのでそれだけは勘弁してくださいね。フィンランドから運んだヨーロッパアカマツでこの家を作るときもね、タバコの煙が抜けるように作ったんですよ。

 ――素敵なログキャビンハウスですね。そして中標津も初めてきました。

 ムツゴロウ もう引っ越してきて40年くらいになりますけど、広くて、川が流れていて、馬が喜んで草を食べるところがいいなと思って選びました。広さはわからんのですけど、100万坪くらいだと思います。それと来る時に、道に梨がいっぱい落ちていたでしょう? 森や川は動物の食べ物を作ってくれるんです。時々、この家にもエゾリスやモモンガが来て窓を叩きますよ。気がついたら食べ物をあげたりして、そんな付き合いをしています。

 ――今はどんな動物たちと生活しているんですか。

 ムツゴロウ 一緒に家で暮らしているのは、大型犬のルナと猫のマヤだけです。今は年を取ってね、自分の手で飼えるだけ。1頭と1匹で精一杯です。あとはすぐ近くの(ムツ)牧場に数頭の馬がいますが、自分が生きていくだけでやっとです。

 

「僕は男5人兄弟の3番めで、一番上と一番下が戦争で死にました」

――ムツゴロウさんと動物の関係は一番最初はどうやって始まったんでしょう。 ムツゴロウ 僕は1935年に福岡で生まれたんですけど、戦争中に医者だった父に連れられて開拓団として満州に移りましてね、満州で住んでいた家は周りを見渡しても何もないところで、昼間はオオカミの遠吠えが聞こえるし、キジやハトがいくらでも獲れました。ナマズやフナを僕が釣って帰ると、おかずになるからって家族に喜ばれましたね。それが動物との最初の出会いでした。 ――戦争の記憶と結びついているのですね。 ムツゴロウ 僕は男5人兄弟の3番めで、一番上と一番下が戦争で死にました。当時は日本の幼年学校に入らないと日本軍の大将になれないので、父親が兄を幼年学校に通わせるために、僕も一緒に小学校2年の終わりくらいに日本に送り返されました。帰ってきてから兄貴は必死で勉強してましたけど僕は野放しで、母の本ばかり読んでいました。バルザックとかプーシキンの小説が好きでしたね。漢字も大体覚えてしまって、新聞を読んでいる祖父に「正憲、これはなんて読むんだ」と呼ばれる役目でした。そうこうしているうちに戦争は終わっていましたね。 ――野放しとは言いますが、大分県立日田高校から東京大学の理学部へ入られています。 ムツゴロウ 親は医者になれとうるさかったんだけど、僕は医者になる気はまったくなかったんですよ(笑)。当時は東大の理科2類から医学部に行くこともできたので、それで親を説得しました。でも大学では医者になる勉強はせず、アメーバの研究に没頭してました。自分の血を抜いて白血球を取り出してね。アメーバってあらゆる動物の命のもとなんですよ。

会社員時代は犬1頭さえ飼っていなかった

――大学卒業後は会社員生活を経て、36歳の時に「動物との共存」を求めて北海道へ移住されました。23歳で結婚されて、36歳の時には娘さんも生まれていたと思うんですが、その決断はどうやってしたのでしょう。 ムツゴロウ 女房と結婚したのは大学を出てすぐでしたね。女房とは中学2年生の時からの付き合いで、娘ができたので安定した仕事をしなければならないと思って、学研という出版社に就職しました。僕は誰もいない土地が好きで毎年夏になるたびに、家族旅行はスキー場へ1週間とか2週間とか行っていました。夏は誰もいませんからね(笑)。そのスキー場である出来事があって、移住を考えるようになりました。 ――どういうことでしょう? ムツゴロウ 一緒に山を歩いていた時に、3歳の娘が虫に刺されて泣いたことがありました。それを見て、僕は自然にかこまれたところで育ったけれど子供たちが自然からずいぶん離れていることに気づいてショックをウケたんです。東京での生活自体を変えないといけない、自然を身に浴びて生活しないと、心が育たない部分があるんじゃないかと思ったんです。会社員時代は生活にヒーヒー言っている状態、家には犬一頭さえ飼っていませんでした。

 

500匹以上の動物と40人のスタッフ

――36歳だった1971年に北海道の嶮暮帰島へ移住、次の1972年には浜中町に「ムツゴロウ動物王国」ができています。

 ムツゴロウ 無人島で人間がいないところで生活しつつ、浜中町の土地を借りて道産馬などの日本古来の馬の繁殖をしようというのが当初の計画でした。それがいつのまにか犬や猫、牛や馬に鶏などの動物がどんどん増えていって、気づけば500匹以上の動物と、世話をする40人のスタッフという大所帯の奇妙な共同生活が始まりました。 

――生活資金は大丈夫だったのでしょうか。

 ムツゴロウ 出版社にいた会社員の時は手取り10万円くらいで何とか食べていける暮らしでしたが、会社を辞める数年前くらいから他の会社から執筆の仕事依頼が増えました。それである程度の生計が立てられるようになったので、北海道へ渡っても執筆の仕事でやりくりできました。

「僕のすべてをぶつけます、手加減しませんよ」

――そして1980年に「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」が始まります。きっかけは何だったんですか? 

ムツゴロウ 北海道に引っ越してからもエッセイなどを書いていたので東京のマスコミの人とはつながりはありました。「ゆかいな仲間たち」の始まりは、後にフジテレビの社長になる日枝久さんと新橋でご飯を食べていた時に「誰も行ったことがないような場所へ行って思う存分動物と触れ合いたい」という話を僕がしたんです。そうしたら日枝さんがいきなり立ち上がって、僕の手を握りながら「畑さんそれやりましょう」と盛り上がったんですね。「僕のすべてをぶつけます、手加減しませんよ」と宣言はしていたんですけど、番組スタッフの方には「大丈夫? 野生動物だから一歩間違えたら死んじゃうよ」ってずいぶん心配されましたね(笑)。

 ――「ゆかいな仲間たち」は、ムツゴロウさんとゾウが触れ合っていたりとまさに手加減なしでした。台本などは当然なかったということですよね。 

ムツゴロウ 相手は野生動物ですからね(笑)。番組のスタッフにも「事前に動物についての説明をしないでほしい」とお願いしていました。前もって動物を馴らしておいたり、なんなら前日に餌をあげておけば簡単に仲のいいシーンが撮りやすいかもしれないけど、僕はそれはやりたくない。とにかく僕と動物が会った初見の場面を見てもらいたかったんです。

 

野生動物相手でも、撮影の打合せは一切なし

――危険なことや予想外のこともあったのではないですか? 

ムツゴロウ もちろん危ないこともあるんですけど、それ以上に僕が残念に思っていたのは、僕と動物の物語が始まる“最初”の肝心な部分を、カメラマンが撮れないこと。ただそれも仕方なくて、僕が動物のどこに触って何を話すかを打ち合わせしていなかったので、カメラマンもどう撮っていいかわからなかったんでしょう。

 ――自分がカメラマンだったと想像しても、野生動物の動きも予想できませんしムツゴロウさんの動きも読める気がしません。 

ムツゴロウ 例えば、35年前に動物園から野生に戻ったゾウと会うとするじゃないですか。そういう時僕は、ゾウの前に立って一度全身の力を抜くんです。そして呼吸を読まれないように、何も言わないし何も動かないようにする。すると最初は警戒してたゾウが、「何だろ」って近づいて来るんです。それに僕も「どうした?」って応じて、そこからスキンシップが始まる。そのお互いの呼吸を撮りたかったんですけど、ほとんど実現しませんでしたね。

 ――それでも事前にスタッフに説明することはしなかったんですね。 

ムツゴロウ それを伝えると嘘になるからです。事前に動きや性質を説明して狙って撮ってしまったら、小学校の理科の本のようになっちゃう。それじゃダメだと思ってたんですよ。 

◆  そのぶっつけ本番のスタイルは、撮影中にライオンに襲われて中指を食べられる、という衝撃の事件を引き起こしてしまう。しかしムツゴロウさんは、それをまるで何事もなかったように、楽しそうな表情で話しだした。( ♯2 につづく) 

【追悼】「よし、指1本やるから勘弁しろ」ムツゴロウさんがライオンに中指を食べられても、ギャングに囲まれても相手を恨まない理由 へ続く

「文春オンライン」特集班/Webオリジナル(特集班)

 

 

 

 

 

 

「ムツゴロウ王国」は度重なる住民反対運動…亡くなった畑正憲さん、借金8億円の波乱万丈

SmartFLASH

東京サマーランドに開園した「ムツゴロウ王国」の従業員を募集するチラシ

 4月6日、「ムツゴロウさん」の愛称で親しまれた畑正憲さんが、87歳で亡くなった。北海道の自宅で倒れ、搬送先の病院で死去したという。6年前に心筋梗塞で倒れ、それ以来、闘病を続けるなかでの出来事だった。

  【写真あり】千葉県流山市に移転する計画もあったが、地元の反対で頓挫した  

ムツゴロウさんは、東京大学理学部で動物学を学んだ後、サラリーマン生活を経て作家デビュー。動物と触れ合うエッセーで人気を博した。よく知られるのは、1980年に放送が始まった『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』(フジテレビ系)だ。 

「1972年、ムツゴロウさんは北海道厚岸郡浜中町に、約450万㎡の『ムツゴロウ動物王国』を開園しました。動物と触れ合うための施設ですが、動物園と違って、原則として非公開。  

ムツゴロウさんのエッセーを読んで共感した若者がやってきて、共同生活を送る施設になりました。『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』はそんな姿を収めた “動物番組” の元祖です」(芸能記者)  

その後、「ムツゴロウ動物王国」は関東への進出を目指すが、地元住民の反対にあい、たびたび頓挫してきた。最初に狙ったのは、千葉県流山市だった。江戸川堤防沿いに広がる約300haのうち、約39haを利用して「東京ムツゴロウ動物王国」を開く予定だった。  

本誌は、2003年、当時の住民たちの複雑な思いを取材している。借地契約を結ぶ予定だった地権者はおよそ300人。そのうちの1人は、

「空気のいいところなのに、臭いに汚染されたり、(糞などで)蠅がたかったりしたらね。それに長いこと続かないでしょう。『潰れたから土地を返します』と言われても、すぐに田んぼに戻すわけにはいかないしね」  と語っていた。予定地には移転に反対する看板が4カ所も立てられ、結局、地権者の反対が多かったことで計画は頓挫した。 「さらに翌年、2004年4月には、東京サマーランド内にオープンすることを発表しました。しかし、ここでも東京サマーランドが位置するあきるの市で反対運動がおこったのです」(前出・芸能記者)  

当時、あきる野市の市民団体「あきる野市政を考えるみんなの会」の事務局長は、

本誌の取材に対し、同王国の従業員を募集するチラシが入っていたとして、「(寄生虫の)エキノコックスの安全が十分確認されていない段階で、こんなチラシを出すなんて問題です」と猛反対。

 結局、2004年7月28日に開園し、北海道からほとんどの動物がやってきたが、集客に悩み、2年後に運営会社が破綻。2007年に閉園し、「むつごろう王国」は北海道に再び戻った。 「東京進出に失敗し、運営会社の負債総額は9億円にのぼりました。

また、ムツゴロウさん個人としても3億円の借金を抱えることになりました。

しかし、その後、8年かけてコツコツ返済したそうです」(同)  

晩年も、北海道での動物との暮らしをYouTubeで発信するなど、精力的に活動していたムツゴロウさん。動物の魅力を多くの世代に伝えてきたその功績は、あまりに大きい。

 

>「東京ムツゴロウ動物王国」は全然、周知されてなかったですね。 気付いたら閉園してたけど、もうあの頃でムツゴロウさん自体が表に出るのは潮時だったかと。 

無免許で帝王切開なんかやっちゃったりアルコール飲みながらお産手伝ったり、

今じゃ完全にNG内容を普通に放送してた事が凄い時代だったんだなぁと。

 ※ムツゴロウさんは獣医師の免許は持っていません。

 

「ムツゴロウ」畑正憲さん87歳死去 東大時代から「稀代のギャンブラー」の横顔も

日刊ゲンダイDIGITAL

畑正憲さん(C)日刊ゲンダイ

 いわゆる「動物好きの優しいおじさん」のイメージとは異なる豪放磊落な人柄だった。 「ムツゴロウ」の愛称で親しまれた作家の畑正憲さんが5日、心筋梗塞のため北海道中標津町の病院で死去した。87歳だった。福岡市出身。東京大で生物学を学び、動物関連エッセーで作家としてデビュー。1971年、北海道に移住し、翌年「動物王国」を開園。「ムツゴロウの青春記」「ムツゴロウの動物交際術」などの著作で、動物たちとの交流をつづった。 600万円散財の粗品だけじゃない! まだまだいるぞ「芸能人ギャンブラー列伝」  

畑さんの名前が全国区になったのは80年から始まったテレビ番組「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」だ。  裸で野生のカバとじゃれあったり、動物園のライオンの口の中に頭を入れたりするなど、動物たちと家族のように触れ合う姿がお茶の間を魅了した。

 ■知る人ぞ知る「稀代のギャンブラー」  

畑さんには、もうひとつの顔があった。知る人ぞ知る「稀代のギャンブラー」で、東大時代からのめり込んだ麻雀歴は半世紀以上。大学を辞めて、山谷に住んだ際、雀荘に入り浸り、1日に1000円稼いだこともあったという。  

2015年10月10日付の日刊ゲンダイ本紙に登場した際も、かつて正月休みの1週間、ぶっ続けで麻雀を打ち続けたことをこう振り返っていた。 「僕はギャンブルが好きでしてね、そのために生きている(笑い)。かつては麻雀を1週間やらないとお尻がむずがゆくなってきた」 「打ち盛りの頃は正月休みの8日間連続でやったものですよ。酒は一切飲まない。たばこは集中力が高まりますからね、ずっと手放さない。最近はタイトル戦に呼ばれますけどね。禁煙だから、引退宣言しようかと思っていますよ(笑い)。麻雀は普通の法則で打っていてはダメ。その都度、法則をひっくり返さなくては。たばこを吸わないと、その判断力が出てこないのです」  競馬も大好きで馬主になったこともある。 「競馬はねえ、どうなるかと思うほどのめり込みましたよ。あるとき、トパーズという名種馬の血統を受け継ぐ最後の牝馬をもらい受け、仔馬を産ませ、育てました。ムツノグラチエという名前を付け、新馬戦に出したところゲートを出なくて出遅れ。これはいい馬だと思い、調教師にも言って毎日ゲート練習を繰り返しました。札幌競馬場で出走させ(略)これは走ると確信しましたから、カードで全預金を引き出してつぎ込んだら、2馬身差で勝ってくれた」  

2017年に心筋梗塞を発症。自宅で療養生活を送っていたが、5日に倒れたという畑さん。動物学者、作家、そしてギャンブラーとしての顔。世界中を飛び回り、波瀾万丈の人生を送ってきた。あらためてご冥福を祈りたい。

 

「10円を惜しむ生活」「夕飯はコンビニの蕎麦」 87歳で死去“ムツゴロウさん” が語っていた「壮絶借金人生」

北海道は遠い

犬と触れ合うムツゴロウさん

 4月5日、“ムツゴロウさん”の愛称で親しまれた畑正憲氏が、心筋梗塞で亡くなった。享年87。1935年に福岡で生まれた畑氏は、東京大学を卒業後、文筆家として、『ムツゴロウ青春記』や『ムツゴロウの動物交際術』など、人と動物の触れ合いをテーマに描いた著作で人気を博し、その後、北海道に動物と人間が共に暮らす「動物王国」を創設。1980年からは、テレビ番組「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」(フジテレビ)がスタートし、21年間続く長寿番組となった。小学校で使用するノートの表紙に、「動物王国」の動物の写真が使われていたことをご記憶の向きも多かろう。

  【写真を見る】「東京ムツゴロウ王国」最後の日に可愛い犬や猫たちと触れ合うムツゴロウさん。シーナ&ロケッツも駆け付けライブを披露していた

 動物番組の先駆者であり、作家・タレントとしてもゆるぎない地位を築いていた畑氏だが、一方で生前、お金に関するトラブルを抱えていた。

きっかけは、2004年。北海道にあったムツゴロウ王国を、東京・あきる野市にある「東京サマーランド」内に移転させたのだ。移転から1年が過ぎた2005年7月、ご本人がその理由を週刊新潮に語っていた。 「この三十数年、多くのスタッフと動物を抱えてやってきましたが、やはり北海道はお客さんに来てもらうにはあまりにも遠い」

 

書類送検まで

 しかも、 「スタッフが50人、動物700匹、エサ代だけで月1000万円かかる。

毎年が倒産危機でした。気がかりなのは王国の行く末。私がいなくっても、スタッフが路頭に迷わないように、東京への移転を決意したのです」  

ところが、経営は順調とはいかず、むしろ苦戦が続く。資金不足は深刻になっていき、2006年には負債を抱え、運営会社が破綻。畑氏の個人プロダクションが後を引き継いだものの、状況は悪化の一途を辿り、07年には閉園。王国は、再び北海道に戻ることになってしまったのだ。さらに、08年には、東京ムツゴロウ王国のスタッフへの給与が未払いだったとして、労働基準法違反の疑いで書類送検までされる始末。  

それから3年後の11年、週刊新潮が再びインタビューを試みると、 「借金のことはもう、そっとしておいてください……。負債は全部僕がかぶりました。1億、2億じゃききませんよ。今でも残された分を細々と返済しているんだ。今日も大阪で公演を2回もしてきたよ……。借金を返すのに一生懸命で夜も寝ないで頑張っているんだから……。一番ひどい時には10円を惜しむような生活をしていた。だから外食にも行けない。働いても借金の返済に出て行っちゃうから。ほら今晩の夕飯だって……」

 

象に鼻で持ち上げられて

 そうこぼしながら畑氏が記者に見せたのは、430円のコンビニの蕎麦だった。 

「東京進出の時は、運営会社に騙されっぱなし。“商品にするからイラストを描いてください。売上の半分を渡す”と言われ、100枚描いて渡したけど、支払いがなく、聞いたら、別の支払いに使ってしまった、と。万事がこの調子で。実は僕、テレビを辞めたら、文学に専念するつもりだった。文章に命を賭けようと。でも忙しくてできない」  おまけに、 「身体にもガタがきていてね、胃は(切除して)全部ないし、

肩は、象に鼻で持ち上げられて脱臼したし……」  

 

その一方で、この年の9月に、「日本動物学会動物学教育賞」を受賞した。 

「これは嬉しかった。私は在野で、しかも独学。学問の世界では通用しないんじゃないかという思いがあった。生きていて良かったと思いました。最近はようやく仕事も上がり調子。今は女房と“結婚したころは落ちたものを拾って食っていたじゃないか”“元気なうちは歩けるところまで歩こう”と話しています」 

 波瀾万丈な人生を、歩ききったムツゴロウさん。ご冥福をお祈りいたします――。

デイリー新潮編集部