私は高校生の時、日本からアメリカに最初に留学した。

それはもう、かれこれ・・・・年前! (ご想像にお任せします。)

その機関は世界中にあり、今でもいろいろな高校生がいろいろな国々に留学している。1年間現地の家族のもとで、住んで、現地の学校に通う。

ただ海外に住むというのとは全く違う特別な時間だった。


昨晩から今日にかけて、その機関のためのボランティアをした。

アメリカの中西部に来ている生徒達が郊外の大学のキャンパスに集められ、

それぞれが自分の国に向けて出発する飛行機に乗るために、別のバスに乗り換える。いろいろな国のいろいろな高校生達が別れを言い、涙する。しょぼん


日本人の生徒達のバスを送り出すとき、1人、1人に声をかけた。日本語をここで聞くとは驚き!と言う声が多く、皆あの1年を終えた私のようだった。

私には本当に懐かしい光景だった。


他のボランティアの人たちとの会話もとても楽しかったし、勉強になった。

長年ボランティアしている人たちは本当に違う文化からくる高校生達を理解しよう、受け入れようとしていた。やっぱりアメリカのボランティアの層は厚いな、勿論無知なアメリカ人もいるけれど、世界に目をむけている人も多いのだな、と感心した。

特にいろいろと話をしたのは、昔自分がアメリカに留学してきたというフィリピン人の60歳の女性と、1957年夏、アメリカから日本へのプログラム第1期生の1人として行ったというアメリカ人の65歳の女性だった。かなり先輩だから、それぞれ私とは全く違うが、とても2人は親切だし、全く違った文化に順応するということに対しての考え方が私には共感できるものがあった。


ボランティアは泊りがけで、夕方5時にチェックイン。夕食とオリエンテーションがあり、その後自由。しかし、パーティーをしていると本番の朝3時からの仕事に間に合わないので、寝ることが必要だった。私は、朝3時から午後2時半までみっちりと働き、娘のむかえのため、その後急いで運転して帰った。疲れたけど、何だか、あの頃の理想を胸に抱いていた私が呼び起こされて、嬉しかった。私も何かが出来るのではないか、私のしてきたことが他の誰かのために役に立つかもしれない。そんな気持ちがした。


でも、迎えにいくと、3歳児の娘は「パパの方が良かった!」とひと言。

あーあ、文化の壁を越える相互理解以前に親子の理解が大変だわ。

ふー、とため息が出てしまった。

寂しかったことの裏返しで言っているのよ、と義母や私の母に言われたけれど、いい気分はしませんよ、SK!