ヨーガスートラの話

【プルシャ】とはなにか? (ヨーガの教えの紹介)
【プルシャ=真我】とは、仏教でも、
【マインドフルネス】の言葉でもない!
それは、ヨーガスートラの言葉。

★スピリチュアルのハイヤーセルフと混同しがちだが、
 ワンネスのスピリチュアルは何方かと言えば、
 ウパニシャッド哲学の不二一元論に近い。

◉プルシャは、不二一元論ではなく、
 サーンキャ哲学の二元論に根拠を置く考え方である。
 
★スピリチュアルの場合は、ハイヤーセルフとはいっても
 自分の人格と別の人格として扱い、ハイヤーセルフと対話するなどの
 セッションがある。
▲これは、ヨーガ哲学において【沈黙の声】といわれる
 プルシャや、アートマンと比べると、
 甚だ、幼稚なものである。


◉ヨーガ哲学は、仏教とは違う考え方をする!

ヨーガスートラでは、我々の心の奥底に眠る
【真我=プルシャ】は
我々の究極の【自己】であり、
それは、そのまま、無常なる宇宙の外から、
すべてを見ている。と言います。

◉ヨーガスートラでは、
はじめから二重の【私】について
非常に明確である!

ヨーガスートラ2の6
自我意識とは、見る者(プルシャ)
と見る力(心の認識作用や五感)
を同一視することである。

仮の私を【自我】とし、
それに対して、
本当の私を【真我】として説明する。
それは同時に、
【宇宙主宰神=イシュワラ】であると言う。

ヨーガスートラでは、
これが、究極の【自己】であり、
【真我】であり、【神】である。

この【真我=神】を
一言で表したものが【オーム】であるとする。

◉静かに座って心の水面が、鏡のように
 静まると、誰でも、【神】としての【自己=自分】に
 出会うことができます!これが、ヨーガです。

◉それは、確認できない過去や、神話や、また、
 確認できない、遠い未来の出来事を妄想して、
 恐怖を語る、宗教ではありません!

◉それは、今ここにいて、全てを見ている自分
 という現実であり、誰でも確認できる真実です。

そして
この【オーム】を詳細に語ったものが
【ガーヤトリーマントラ】と言われる。
(サイババの教え)

ヨーガスートラにある、主宰神への祈祷は、
迷っている自我が、まだ、完全に繫がっていない
神としての【自己】へ祈祷するとなるが、
実際は、別の意味がある。

◉唯識派と、ヨーガ哲学では、全く別の回答をする!

 仏教は、同じ仏教でも、それぞれの流派で、
 全く違うの哲学、理論をもち、
 【仏陀に帰依する】以外の共通点はほぼない。
 つまり、
 仏教には、共通の哲学理念がない。
 時代の流れとともに
 前の教義を否定して発展してきたものである。
 それに対して
 ヨーガスートラは、非常に明快でわかりやすい。

◉ヨーガ哲学の態度は終始一貫しており、
 神=自己(アートマン)に至ることが解脱とする。

以下、ヨーガスートラより。

BHAVAPRATYAYO VIDEHA PRAKRITILAYANAM
バヴァ プラッティヤヤ ヴィデーハ プラクルティラヤーナーン
 
単に物質的身体を去って、天界の神格たる状態に至った者、あるいは自然(プラクリティ)に没入した物には再生がある。

言葉の意味
バヴァ 生まれつき//プラッティヤヤ 持って、備えて
//ヴィデーハ 聖なる存在//プラクルティラヤ 自然界の聖なる存在 

★大乗仏教の聖人とも言える維摩居士は
 法身まで得たのに、何故、仏陀の弟子と成るために
 下生したのか?ヨーガスートラに上記の様にある。

◉プルシャを悟ると解脱する!もう再生はない。
しかし、
 プラクリティを悟っても解脱しない!(という意味)

★ウパニシャッドのアートマンと原始仏教のアートマンは
 単語は同じでも意味は全く違う!原始仏教の
 それは【輪廻の核としての魂】という意味で
 【プラクリティ】に属する。
 ウパニシャッドのアートマンは、
 ほぼ、サーンキャの【プルシャ】
 と置き換えていい言葉。

★ヨーガスートラでは、【唯識】を否定して
 次のように言う。

18. プルシャは不変であるので、
 心の動きは常に知られている。

19. 心はそれ自体で輝くものではない。
 それはプルシャによって見られるものであるから。
 (唯識の光り輝く心の本性の否定)

20. また、心は二つのものを同時に
  認識することはできない。


21. もし心が別の心によって知覚されるのであれば、
心は知覚する数だけ無限に存在することになり、
記憶の混乱を生じるだろう。
 ▲上座部の刹那滅の否定。
 ▲唯識の、【末那識が、主体と客体にわかれる説】の否定)

★ヨーガスートラ1章では、いかのようにある。
の【無種子サマディーでは、光も消滅する。】
アートマン(プルシャ)を外から見ると【光】だが、
合一すると【光】すら消える。という意味。

47. ニルヴィチャーラ・サマーパッティによって一切の汚れが浄化されると、至高の真我が照らし出される。

48. このとき、絶対的真理を見る。

49. この絶対的真理は、聖典で学んだり、推察され知識とは全く異なっている。なぜなら、それらの知識は特定の対象に限定されているから。

50. この絶対的真理の光によって、すべてのサンスカーラは消滅する。

51. この光さえ消滅したなら、一切が消滅する。これがニルヴィージャ・サマーディである。

ニルヴィージャ・サマーディ  種のない三昧。解脱の完成。

Rita さんのヨーガの歌(ヨーガの教えの歌)です。
produceは、Kunjubihari Kathak です。



ヨーガスートラの哲学は、サーンキャ哲学です。
インドの伝統的ヴェーダンダ(不二一元論)とは、
異っており、真我をアートマンと呼ばず、
プルシャと呼びます。

◎サーンキャ哲学は、大乗仏教の唯識派の見解とほとんど
同じと言ってよいと考えられています。
(因みに、唯識派の有名な僧侶は、ダライ・ラマや、
玄奘三蔵法師です。)

例えば、阿頼耶識は、マハットに、ほぼ等しい概念です。
アハンカーラ(我執)は、ほぼ末那識です。
マナスが、第六感の意識。という工合に照応します。

◎しかし、自己に関する見解が正反対になっています。

◉唯識派は基本的に【無常無我説】ですので
【自己】認めません。
 輪廻の核として【阿頼耶識】を説いています。

◉ヨーガのサーンキャ哲学は、
 仏教の否定している概念である、
 【自性(スヴァバーバ)】と【自己】を実在原理として
 定義しそこから世界の展開を説明します。
 これは、アートマン即ブラフマンのヴェーダ哲学の
 不二一元論とは、別の哲学です。

◉自己とは、【見るもの】ですからどこまで行っても
 見つかりません。
 目は自分を見ることができない訳です。
 そして、存在するしないという二元的世界の外にいる
 のですから、【それは、在る】といっても【それは無い】   
 といっても、間違いです。

【在る】として説明するのが、インド哲学。
 【説明不可能】として【沈黙】したのが、仏陀です。