アセンションとやらの前に | 手が知っている異界の彩~絵師・緋呂 展示館~

手が知っている異界の彩~絵師・緋呂 展示館~

神・仏・天使。そして、「あなた」の光を、緋呂が描きます。陰陽併せ持つ「人間」の中に、すべては在る。
描くべきもの、進むべき道。すべては、手が知っています。

人知れず、神が指示を与え、その人間にとっては選択の余地さえ与えられないままに、動かされる。
そんな人達は、実際におられる。


その領域にはいない大多数の人間
(声を聴くことができる、指示を受取ることができる…ということとは関係がない。聴ける見える感じられるからと言って、今、私が指している領域に入れていることにはならない。むしろ、自らそれを標榜し、神に使われたいと願う者は、神域に住むことを許可されない)
には、存在さえ知らされず。

働きの、ごくごく一部を…それすらも、不完全なままで漏れ伝わる程度にしか、伝えられず。

そのために、人の理解も共感も得られず。

本来なら、その苦境を汲み取るべき、魂や神や宇宙の根源あるいは真理に触れたいという人々からさえも、誤解され。

その真実を見抜ける、本当に少ない人達の中の一部からは、その真実の故に反感や妬みで攻撃され。

最も大切なものを盾にとられ。

人間的な世俗的成功や富も、指示をこなすために必要な分以上は与えられず。


それでも、やるしかない。


そんな、【神域に住まわされた人々】





それでも…やはり、その苦役を自ら引き受けると選んできたのは、自身に他ならない。

…と、私は、そう言うしかない。


それは、私もまた。
そんな人達と関わっていく…その時感じる無力感や、神や宇宙への怒りや、その他いろいろなことを「それを知る」ことを選んできているのだ、って、言うしかない…と、思うから。
直接背負う人達とは、比ぶべくもないけれども。



人などもう粛正してしまえ…という、宇宙の動きが、あるかも知れない。
いや、まだまだ、人には可能性がある…という動きの宇宙も、あるかも知れない。

安っぽいファンタジーのシナリオには度々登場する「光VS闇の勢力」みたいな構造に、近いものが、あるかも知れない。
(もっとも、どちらが光でどちらが闇か、というのは…非常にビミョーなところだけども)
(まあ、そもそも、光と闇とかいうわかりやすい設定は、人間の小さい頭に理解できるように矮小化された概略図の、ほんの一部でしかない…って、思うけど)




忘れちゃいけない。

宇宙が、神が、本当に「今この世界にはびこってる人間という種族は害になる」と判断したら、人類など一瞬で存在できなくなる。

そして、もしかしたら「粛正せよ」の指令を覆すことができているのが、ほんの一握りの人に課せられた過酷な現状の成否によるものかも知れない…っていうこと。

人の意識がどのように在るか、ということが、その人達の背負うものを軽くも重くもするのだ…ということ。




想像力だけは失うな。

人の痛みを推し量れるかどうか。
それも、想像力が決め手になる。


自分の知覚の範囲にないことを「あるはずない」と決めつける…それも、想像力をそこに向けることができれば、そんな否定断言はできなくなる。


人間の小さな頭でわかることなぞ、本当に、微々たることでしかない。

この世は、証明も説明もできないことで満ちている。
そういうもので、構成されている。


動物も植物も鉱物も、それをちゃんと知っている。
しかし、彼らはそれを説明することも提示することもできない。
その存在や変化の過程を通して体現するのみ。


人間だけが、それを、意識の中で別の手段に置き換えて、カタチにすることができる。

だからといって、人間が偉いわけではない。

ただ、「そういう役柄の種族」として存在させてもらえている…ということだ。



人間が起点となり人間に都合の良い「高次元世界への移行」を思い描くのは勝手だけど。
全ては、それを神が宇宙が許可すればの話である…ってことは、覚えておくべきだと思う。