東京から1日で行ける北の街へ、孤独な一人旅 ~宮脇俊三先生の旅を偲びながら~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

東京から1日でどこまで行けるのだろうか?

そんなことを、ふと思ったことがあった。
もちろん飛行機ではなく、足を地につけた鉄道の旅で、出来る限り遠くへ行くとするならば、という話である。

西は、東海道・山陽・九州新幹線の威力で、長崎や鹿児島まで6~7時間足らずで行けることは明らかだ。

ならば、北はどうなのだろうか。

昭和50年代に、その記録がある。
上野から朝7時17分発の新幹線リレー号で大宮7時43分着、8時ちょうど発の東北新幹線「やまびこ」13号で盛岡11時17分着、11時30分発の在来線特急「はつかり」7号で青森14時05分着、14時55分出航の青函連絡船に揺られて函館へ18時45分入港。
さらに19時発のディーゼル特急「北斗」7号に乗り換えて、日付が変わる寸前の23時25分に、ようやく札幌にたどり着いたという。
これは、紀行作家の宮脇俊三氏が『旅の終わりは個室寝台車』に収められた「東京-札幌・孤独な二人旅」で実行したもので、東北新幹線が大宮-盛岡間の暫定開業、本州と北海道は青函連絡船が結んでいた時代である。
昭和57年11月の国鉄のダイヤ改正によって、初めて、東京から札幌が出発した日のうちに目的地に到着出来る「日着」の範囲内に収まったのだ。
 
 
旅の途上、9時28分に着く福島のあたりで、もし飛行機だったら今頃はどのあたりを飛んでいますかな、という宮脇先生の問いかけに、同行の編集者が急に生き生きとして時刻表をめくり出す。
 
「上野に行かずに浜松町からモノレールに乗ったとしますと、7時40分か50分には羽田に着きますね。とすると、8時20分発の全日空に間に合って、千歳に着くのが9時45分。ありゃりゃ、あと15分で着いちゃいます」
 
青森駅で50分もの待ち合わせ時間があることについて、
 
『国鉄当局には東京から札幌へ直行する客の便宜をはかろうとした気配はない。上野発7時17分のリレー号に乗れば、その日の夜23時25分に札幌に着くという一見画期的なダイヤは、たまたまそういう結果になったに過ぎないのである』
 
と分析したり、また「東京から札幌まで通しで乗ってきた客がいたかどうか、知りたいですね」との同行者の疑問に応えて宮脇先生がわざわざ車掌室を訪れ、
 
『車掌長は、けさ7時17分に上野を発って通しで乗ってきた者だがと切り出した私を、驚きの目で眺め、それから、ありがとうございます、と丁寧に言った。しかし、肝心の質問については、
「東京からの周遊券のお客さんはいらっしゃいましたが、けさ上野からお乗りになったかどうかは、私どもの車内改札ではわかりかねるのです」』
 
と、国鉄職員にまで驚愕されたり、
 
『「会社で、北海道へ行くんだと言いますとね、ああ北海道か、いいなあって、みんな羨ましがるのが普通なんですけど」
「そりゃあそうでしょう。飛行機であっさり行けるようになって、だいぶ手擦れてきたけれど、まだまだ広々としてますからね」
「ところが、汽車と連絡船を乗り継いで16時間かけて札幌まで行くのだと言うと、みんな、それは気の毒、と同情するんです」
「1人くらいは、それは面白そうだという人がいてもいいと思うがなあ」
「それが、1人もいないんです」
「困った会社ですな」
「1人くらいいてもいいですよね」
「それで、ご本人はどうなんですか。自分に同情しながら乗っているってわけですか」
「そんなことはありません。いい経験だと思ってます」
 
いい経験……』
 
などという、本来はクルマ派である同行の編集者との掛け合い漫才のようなやりとりが、黄昏の津軽海峡を行く青函連絡船を筆頭とする沿線の情景描写とともに、楽しく読み応えがある。
 
深夜の札幌駅に降り立って、

『札幌は、まだ「きょう」の営みを続けているようであった』

と結ばれているのが、長い長い旅の結末として印象深かった。

宮脇先生の数々の短編の中でも僕が大好きな1編で、何度も何度も読み直したから、尊敬する先人が旅した行程を、自分でもなぞってみたくなったのは自然な成り行きである。

大好きな鉄道にひたすら乗り詰めて、北の大地へ!──

鉄道ファンとしては憧れてしまう。
地図や時刻表を開いての机上の遊びならまだしも、実行するとなると、マニアでなければ馬鹿馬鹿しいと思うんだろうなあ、と心の片隅で自嘲する気持ちもあったけれども、思い立ったら無性に実行したくなった。
 
 
平成18年の8月、東京6時56分発の東北新幹線「はやて」1号で、僕はひとり旅立った。
白と紺のツートン・カラーにピンクのラインがアクセントの高速列車E2系車両が第1走者だ。
昭和63年に青函トンネルが完成し、平成14年には東北新幹線が盛岡から八戸まで延伸している。
宮脇先生の時代から、果たしてゴールはその先へ伸びるのだろうか?

首都圏の隙間なくぎっしりと建て込んだ街並みの中に、少しずつ緑が増えていき、大宮を過ぎて新幹線の速度が本格的に上がる頃には、関東平野の広大な田園風景が車窓いっぱいに開けた。
強い真夏の日差しが容赦なく差し込んでくる。
滑るような揺れの少ない乗り心地に身を任せるうちに、西側遥かに遠望されていた山並みが、ぐんぐんと近づいてくる。
鮮やかな空の青さと、実り豊かな田園や山々の緑が一段と深みを増すと、早くもみちのくの気配が感じられる。
 
 
コンクリート製の高架橋で平野を貫き、山々と丘陵を大小のトンネルで次々とくぐり抜けて、「はやて」は疾走する。
次々と過ぎ去っていく街並み。
躍動感溢れる新幹線の旅は、遥かなる前途に対する期待を嫌がおうにも盛り上げる。
走馬灯のように目まぐるしく入れ替わる、豊かな車窓を楽しみながら、僕は一直線に北を目指す。
どこまでも優しい自然に彩られた東北の車窓だった。

豪雪地帯らしくドームが被さった八戸駅の真新しい新幹線ホームから降り、ややうらぶれた空気が漂う煤けた在来線ホームで待っていたのは、10時16分発の函館行き特急「白鳥」1号だった。
かつては、大阪と青森を結ぶ日本一の昼行ロングラン特急として有名だったが、今では東北新幹線から北海道へ向かう接続特急として、第二のお勤めである。
鮮やかな緑のマスクに、銀色に輝くスマートな車体が颯爽としていた。
 

スルスルと東北本線を走り出せば、車窓や乗り心地は、ガラリと鄙びた雰囲気に変わった。
進路を遮る起伏を容赦なくトンネルで貫いていた新幹線とは異なって、山がちな地形に逆らわないよう敷かれた在来線は、敷設以来の長い歴史を感じさせる。
私鉄の日本鉄道として開業した明治の昔から、数えきれない人生を運んできた鉄路の風格と素朴さが、乗り心地からもにじみ出ている。
もどかしいように感じながらも、いつの間にか、こちらの方が心が落ち着いている自分に気づいた。

昭和の終わり頃、初めて北海道に向かった時は盛岡乗り換えだったけれど、やはり同じような感慨を抱いたことを懐かしく思い出した。
あの頃は、盛岡から青森への道のりが、本当に長く感じたものだった。

当時の接続特急は「はつかり」の愛称で、国鉄のロングセラー車両485系が用いられていた。
代わり映えのしない汎用の特急車両だったが、583系という肌色に紺色のラインが印象的な寝台特急用の電車に巡りあったこともある。
夜は3段式の寝台列車になり、昼間はベッドをたたんで4人向かい合わせの座席の列車として折り返す、働き者の車両だった。
高校時代の同級生と語り合いながら、座面を少しだけ引っ張り出し、足を伸ばしてくつろいだ北行きの夜更けのことを、僕は一生忘れないだろう。
 
 
「はつかり」は、昭和30年代から東北と上野を結ぶ特急列車から受け継がれた伝統の愛称だったけれど、東北新幹線八戸開業と同時にあっけなく消えてしまった。
代わりに登場した「白鳥」の起源は、上野と大阪の間を長野・金沢経由で結ぶ大回りの特急列車で、その後、大阪と青森の間を長く走り続けた。
いきなり、東北新幹線に接続する八戸発函館行き特急の愛称に採用された時には、度肝を抜かれてしまったが、どうして「はつかり」ではいけなかったのか。

カタタン、タタンというリズミカルな走行音を子守歌のように聞きながら、ゆらゆらと右に左に揺られていくうちに、やがて、波光きらめく陸奥湾が右手に広がった。
盛岡を発着していた時代に比べれば、あっけないほどの行程の短縮ぶりである。

しかし、たったこれだけの距離である八戸-青森間に、新幹線を続けて建設できない今の時代を思う。
新幹線の建設が国策であった時代、僕らの国が経済的に勢いのあった時代は終わったのだな、とちょっぴり寂しく実感する。

乗る列車は新しくなっても、何本もの線路が左右へ扇のように広がり、車両を震わせて鉄輪を鳴らしながら幾つもポイントを越えていく青森駅の構内は、昔と変わらず、本州のどん詰まりという雰囲気が醸し出されていた。
頭端式のホームの構造は、まさに終着駅の貫禄である。
かっては、到着した列車の進行方向にホームを歩けば、青函連絡船の港だった。
「白鳥」からは大部分の乗客が降りてしまったけれども、津軽海峡を渡る今の旅人たちは車内から動かない。
おもむろに立ち上がって、バタンバタンと座席の向きを変えるだけである。
 
 
ここで進行方向を180度変えて「白鳥」が足を踏み入れていく津軽線は、特急列車に乗っていても、高速道路から田舎道に足を踏み入れたかのようなローカル線の味わいになった。
山裾が迫る波打ち際に、寂しげな村落が見え隠れする。
傾きながらも、風雪に長年耐え続けてきた年輪を感じさせる古びた家々が、ひっそりと身を寄せ合っている。

太宰治が「津軽」に記したままの、地果つる国の侘しげな情景が、ゆっくりと車窓を通り過ぎていく。
 
 
中小国信号所から津軽海峡線に入ると、今度は、乱気流を抜けた飛行機のように、一変して揺れのない乗り心地になった。
優雅な翼を広げて滑空を始めたかのように、「白鳥」はみるみる速度を上げていく。
ここからは新幹線用に造られた高規格の線路なのだ。
東北新幹線八戸-青森間の延伸よりも更に遠い、見果てぬ夢であるけれど、血の滲む思いでこの線路を作り上げた人々は、それを信じていたはずである。
 
 
昭和57年に公開された森谷司郎監督・高倉健主演の東宝映画「海峡」は、青函トンネル建設を舞台として、工事に携わる様々な人間模様を描いた大作であるが、作業員たちが、将来はここに新幹線を通すのだと語り合うシーンがあり、まだ青函トンネルが貫通すらしていない時代から、このトンネルは新幹線が通ってこそ本領を発揮するのだという思いを強く抱くようになった。
もっとも、作業員の1人が、何十年後になるのかとつぶやくシーンは象徴的であり、東北新幹線が走り始めた年に製作されたこの映画から、30年が経過しても、未だにいつ新幹線が通るのかわからない。
時の移ろいとは、なんと容赦がないものであろうか。
 
 
鬱蒼とヒバや杉林に覆われた山々が連なる梵珠山脈は、とても半島とは思えない奥深さだけれども、短いトンネルを幾つかくぐるうちに、突然、窓が一斉に水滴で曇った。
列車が奏でる風切り音も、それまでとは異なるように感じる。

青函トンネルである。

優に50㎞を超える海底トンネルは、継ぎ目のない1本の超ロングレールで結ばれているという。
壁の灯りが、一定間隔で窓外を過ぎ去る。
コーッという甲高く物悲しい音を暗闇に響かせながら、時速120㎞でひたすら走り込む特急列車は、揺らぎもしない。
窓に映るのは、空席が目立つ閑散とした車内だけであった。

「白鳥」の先頭車は、前方のデッキに出れば、貫通扉に小さな窓がついていて前が眺められるようになっている。
覗いてみれば、ヘッドライトに照らされて黒光りする線路が、どこまでもどこまでも真っ直ぐに伸びている。
列車を包み込んで果てしなく続く巨大な筒型の構造物を眺めていると、底なしの沼のように、奈落の底に吸い込まれていきそうな錯覚に襲われて、僕は思わず窓から顔を離した。
本当に、途轍もないものを作り上げたものだ、と思う。
青函連絡船が歌い上げていた旅情には及びもしないけれど、僕らの国の底力を誇らしく思う北への道筋だった。
 
 
ただし、通過する旅客数は年々減っているようで、今では青函トンネルを通る普通・快速列車は全廃され、優等列車のみとなってしまっている。
トンネルの開業直後に鳴り物入りで登場した寝台特急「北斗星」も本数を減らしてしまった。
もちろん、北前船の伝統を引き継いで、ひっきりなしに行き来する貨物列車は健在であり、すれ違う頻度は旅客列車よりも遥かに多い。

40分程の海底旅行を終え、車窓がパッと明るく開ければ、そこは北海道の大地である。
木古内で高規格の津軽海峡線は終わりを告げ、昔ながらの江差線に入る。
それまでの俊足ぶりが嘘のように、「白鳥」の勢いも萎んでしまい、もどかしく遅々とした走りに戻ってしまう。


 
心なしか木々の緑が本州に比べて色褪せ、窓から射し込む日差しも弱々しく感じられた。
覆い重なる葉ずれの合間に、今くぐり抜けて来たばかりの津軽海峡の紺碧の海原が見え隠れする。
はるばる北国に来たという実感が湧いてくる。

函館駅のホームは、同じく頭端式の青森駅に比べれば幅が狭く、緩やかな弧を描いている。
跨線橋を渡って「白鳥」から乗り換えた、13時25分発の札幌行き特急「北斗」11号は、ブルンブルンとエンジン音があたりの空気を震わせるディーゼル特急だ。
渋いブルーに塗られたゴッツい面構えの、いかにも古強者といったベテラン車両である。
 

それもそのはず、20年前、青函連絡船を降りた僕が、北海道で初めて乗った列車も、同じ愛称の、同じ形式のキハ183系車両だった。
国鉄時代に道内で活躍していたキハ181系特急用気動車と入れ替わりに登場したばかりの頃で、JR北海道にしかない新しい車両を目にして、ついに北海道まで来たのか、という感動に浸ったみずみずしい記憶が不意に蘇った。
時が逆戻りしたかのような錯覚にとらわれて、思わず胸が熱くなる。

函館と札幌の間には、今や最高速度が時速130km、所要2時間59分という俊足を誇るキハ281系「スーパー北斗」が走っている。
キハ181系や183系では考えられない韋駄天ぶりは評判で、この旅を計画した時も、是非とも乗りたいと思っていた。
しかし、僕が乗ってきた「白鳥」1号に接続する「スーパー北斗」はなく、代わりに「北斗」11号の接続だったのだ。
 
 
1時間あまり待てば、次の札幌行きは「スーパー北斗」である。
函館の街を1時間散策するという案は、大変魅力的だった。
湯の川温泉につかってもいいし、市場では新鮮な海の幸を賞味することもできるだろう。

しかし、東京から1日でどこまで行けるのか、という旅の大命題を考えて選んだ第1走者の「はやて」1号は、当然、八戸行きの始発列車だったし、接続も全て最短時間で乗り換えられる列車にすべきである。
ここで「スーパー北斗」に乗りたいがために函館で1時間を費やしたならば、この旅の終点は、厳密な意味で、その命題には答えていないことにならないだろうか。
そう考えて、僕は渋々「北斗」を選択したのだった。
この時間に「スーパー北斗」を配してくれていないJR北海道が恨めしい気持ちはある。

潮風が匂う函館を後にした「北斗」11号は、一面に覆い繁ったエゾマツの林をくぐり、線路際まで緑の絨毯を敷き詰めたような小沼の湿地帯を走り抜けて、のんぴりと渡島半島を北上する。
人の手が全く加わっていない自然そのままの豊かな景観が、目に優しい。
 


思い起こせば、この区間を日中の鉄道で走るのは久しぶりだった。
最初の北海道訪問で「北斗」に乗った後は、夜行列車だったり、高速バスだったり、はたまた飛行機だったから、20年前と全く変わらないディーゼル特急の懐かしい乗り心地と車窓に、僕はいつしか若かりし頃のはしゃいだ気持ちに戻り、夢中になっていた。
何回訪れても、北海道の旅は新鮮だった。

 

『千歳行きの飛行機ならば、函館の上空から高度を下げ始めるから話にならない』

 

というのが、宮脇先生の常套句だったが、確かに、この区間をのんびりと列車に揺られなければ、はるばる北海道に来たという感激は味わえないのではなかろうか、と大いに賛同する。
最速列車への未練など、とっくに脳裏から消えていた。

 

 


長万部から室蘭までは、噴火湾に沿って広がるなだらかな牧草地帯を行く。
海原を背景に点在するサイロや、草を食む牛や馬の姿に、心が和む。
静かに空を写して、暗い海原が波打っている。


東室蘭、苫小牧を過ぎると、列車は内陸部へ進路を変えた。
赤土が目立つ未開の丘陵地帯に、いつしか建物が立てこんできて、のんびりした車窓に慣れた目がチカチカする。
久しぶりに眺める、殷振を極めた黄昏の都市景観がまばゆい。

 

 

 

16時58分、「北斗」は札幌駅の高架ホームに滑り込んだ。

黄昏が迫る駅構内はすっぽりと巨大なドームで覆われ、燦々と照明が輝いている様は夜の装いに思えるが、列車の出入口からは眩い光が差し込んでいて、街はまだ明るさを残していることが察せられる。

東京からちょうど10時間が経過していた。
宮脇俊三先生が旅した20年前はここで1日が終わってしまったけど、僕には、まだまだ進む余地が残されている。
確かに遠い道のりだったけれども、札幌の街は、今日の営みを続けているどころか、帰宅ラッシュの真っ最中だった。
これは、確かに進化と呼んでいいことだと思う。
その恩恵を被ることが出来る人が少ないことは、残念である。

 

 

 

 

仕事帰りや買い物の人混みでごった返す駅ビルで軽く夕食をとり、ホームに駆け上って飛び乗った最終ランナーは、札幌17時22分発の特急「宗谷」3号である。
お公家さんのように端正で下ぶくれの真っ青なマスクに、流麗なシルバーの車体だった。

 


市街地に立ち並ぶビルの背丈がだんだん低くなると、「宗谷」は高出力のディーゼルエンジンを高々と轟かせて、日暮れ時の石狩平野を力強く疾走する。
見渡す限りの平原が、左右の窓外をゆっくりと過ぎていく。
いつの間にか、空はどんよりとした雲に覆い尽くされていた。
列車は軽快に飛ばしているけれども、景観があまりに雄大で変化に乏しく、スピード感は全くない。

時折、最高時速130kmを誇る銀色の特急「スーパーホワイトアロー」をはじめ、数々の電車が行き交う。
「宗谷」にも「白鳥」と同じく先頭車に覗き窓がついており、遠くに点のように見えていた対向列車がみるみる近づいて、互いに風をぐわんと巻き込みながらすれ違っていく様は、なかなかの迫力である。
北の大地を駆ける列車の旅は爽快で、鉄道ファンにとっては至福の時間だった。
 


左手の空と大地の境目に遠望されていた幌内のなだらかな山並みが、少しずつこちらに迫ってくれば、旭川に到着する。
うって変わって車窓は山深くなり、木々の枝が窓を叩きそうな、路盤の狭い単線の宗谷本線へ乗り入れていく。

振り子式のディーゼル特急は、左へ右へ、身をくねらせながら力走する。
何年か前に、塩狩峠の手前の山中で、乗っていた急行列車が鹿とぶつかったことを思い出した。

かつての宗谷本線には、急行列車しか走っていなかった。
日中は札幌発着の「宗谷」と旭川発着の「サロベツ」、そして夜行の「利尻」である。
今は全て特急列車に格上げされたけれど、愛称はそのままで、走りっぷりも大して変わっていない。
津軽線や江差線と同様、線路の貧弱さは、いかに最新鋭の車両を投入しても、如何ともし難いのだろう。
それだけに、遠くにやってきたという旅情は嫌でも盛り上がる。

 

 


折り重なる山あいを縫うように、北へ向かう最果て行きの特急列車は黙々と走り続ける。
たそがれて夜の帳がゆっくりと幕を下ろしていく車窓に、人の気配はほとんど感じられなかった。
塩狩の峠越えで一段と速度が落ちる頃、とっぷり日が暮れた。
それで良かったのかもしれない。
この時間、僕は道北の寂しげな光景に耐えられたかどうか。

一人旅の時は、いつも夕方になると、いったい自分は何をやっているのかという孤独感に苛まれて、胸がいっぱいになる。
窓は漆黒の闇に塗り潰されている。
車内で共に北を目指す乗客も、数えるほどだった。
誰もが押し黙ったままで、寂寥を慰めてくれるものは何もない。
たまに現れる家々の灯りが恋しい。

 
 
名寄、美深、音威子府、幌延……
 
暗闇に抱かれた、天塩の山岳地帯の谷間に佇む町を結ぶ「宗谷」の足どりは、遅々としているけれど健気だった。
過ぎ去っていく小さな通過駅の明かりは薄暗く、ホームに人影は見えない。
特急の停車駅ですら、賑やかというには程遠い雰囲気であったものの、列車を降りて足早に改札を出て行く人々の姿が、旅の途上にある僕とは無縁の生活感に溢れていて、羨ましかった。

ぐいぐいと身体が左右に揺さぶられる感触が、いつの間にかなくなり、走りが少しばかりシャンとして、山岳地帯を抜けたことが察せられたけれども、その先のサロベツ原野も闇の中だった。
昼間ならば、海の向こうに利尻富士が眺められる区間である。

長かった夜間航海を終えて「宗谷」が稚内駅に滑りこんだ時、時計の針は、ぴったり定刻の22時47分を指していた。
たった1本しかないホームに降り立つと、肌寒いほどの涼気がひんやりと僕を包みこんだ。
朝の東京の蒸し暑さが信じられないくらいだった。
 

ゴーーーーール!

と、サッカーの実況風に心の中で叫んでみたけれども、感動や達成感とは程遠い心境だったのは、我ながら意外だった。
東京駅を発って16時間、4本の列車を乗り継ぎ、鉄道用語で言うところの余裕の「日着」で、まさか日本最北端まで来ることが出来たとは、旅が終わろうとしているその時でさえ、信じられなかった。
飛行機の速さや新幹線計画ばかりが取り上げられるけれども、この20年間、鉄道も地道に頑張って来たじゃないか、と思う。

日が替わるまでまだ1時間あるけれど、この先に線路はない。
最果ての駅の薄暗いホームの電灯に照らし出された「宗谷」の鼻面には、一面に羽虫がこびりついていた。
 

(補記)ちなみに東北新幹線が全線開業した平成22年以降は、東京8時12分発の新青森行き「はやぶさ」に乗れば、稚内に、ほぼ同じ時刻に着く。
北海道新幹線新函館北斗開業後は、東京9時36分発の「はやぶさ」に乗れば、23時47分に稚内に着く。
所要時間が、更に2時間短縮されたのである。

モノ好きな方は、お試しあれ。

*この紀行文は昨年3月にアップしたものを大幅に加筆したものです。
 先日、「はやぶさ」で新青森まで往復したとき(http://s.ameblo.jp/kazkazgonta/entry-11626228298.html)、この旅行を懐かしく思い出して再びアップさせていただきました。
 
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