足摺岬への船旅 ~大阪南港とあしずり港(土佐清水)を結んだ室戸フェリーの思い出~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

轟々と耳の奥に響いていた風切り音が、不意に消えた。
うつらうつらしていた僕は、ハッと顔を上げた。
大阪市営地下鉄四ツ橋線の電車が、地上区間に出たのだった。
既に日はとっぷりと暮れ、車窓は、地下でも地上でも変わりのない深い闇に包まれている。
それでも窓外に目を凝らすと、高層マンションの灯や、車のライトが、かすかに瞬いていた。


車内は、いつの間にか閑散としている。
先ほど通ってきた、大阪キタの繁華街の雑踏が、嘘のようであった。

 
 

住之江公園駅で、ニュートラムに乗り換えた。
東京のゆりかもめのような、小柄な車体の新交通システムである。
僕がフェリーターミナル駅で下車した時には、時計の針は午後11時を指していた。
20年近く前の、初夏の金曜日のことである。

ニュートラムを降りると、油くさくて蒸し暑い空気が、ねっとりと僕を包み込んだ。
潮の匂いがかすかに混じって鼻をつく。
都会の港の香りだと思う。
これだけで、ずいぶん遠くまで来た気がした。
新大阪駅から約1時間かかっている。
仕事を終えて、そのまま東海道新幹線300系「のぞみ」に飛び乗り、ここまでやって来たのだ。


大阪南港を23時20分に出航する、室戸フェリー土佐清水港行きに間に合うように──

 
 

殺風景な乗船券窓口は、照明が薄暗くて、人影もまばらだった。
二等船室の電話予約は、東京で済ませていた。


「今日は空いてますから、一等にも変更できますが?」

と、窓口の係員さんが、どちらでもいいような無表情さで勧める。
少しばかり躊躇したけれど、仰せの通りにした。
どうにでも融通が利く、気楽な一人旅だった。
これから10時間かけての、夜の船旅である。
船といえば、青函連絡船や宇高連絡船、東海汽船大島航路、佐渡汽船佐渡航路など、雑魚寝の土間席や椅子の席しか乗った経験がなかったから、少しばかり贅沢をしてみたくなった。
加えて、今夜は、他の客とあまり顔をつき合わせていたくない気分だった。

乗船名簿に記入して、「フェリーむろと」のタラップを渡る。
ちなみに「フェリーむろと」とは、運航会社名でも航路名でもなく、室戸汽船が所有する全長132.92m、全幅23.00m、排水量6472トンのこの船の愛称であるという。
広々とした船内の通路を、自分の部屋を探して歩いた。
どこからか、ガタン、ガツンと鈍い音が聞こえるのは、船倉に、トラックや車が乗りこんでいるのだろう。
 
 
室戸汽船は、昭和26年に、大阪から、海亀の産卵で有名な日和佐を経由して、室戸岬に程近い甲浦港を結ぶ客船の運航を始めた老舗である。
昭和50年に神戸港と甲浦を結ぶフェリーの運航を始め、昭和57年には土佐清水のあしずり港まで延伸、平成7年には大阪南港発着に変更されていた。
 
この夜、僕が出掛けようとしているのは、大阪南港から甲浦港を経由してあしずり港まで、四国南岸の2つの岬を結ぶ、生まれて初めての長距離夜行フェリーの船旅だった。

この日の乗船客はそれほど多くないようで、カーペット敷きの二等船室はガラガラだった。
一等船室は、6畳くらいの畳部屋の奥に、2段ベッドが2つ向かい合っている。
個室じゃないのか、と、少しがっかりした。
結局、その夜は、他に誰も相客が来なかったので、気儘にくつろぐことは出来たのだけれど。

深夜0時までは、船内の食堂と売店が営業しており、僕は弁当とビールを買った。
東京を出てからは慌ただしくて、コーヒーくらいしか飲んでなかったから、空腹だった。
 
 
甲板の手すりにもたれて、ボンヤリと、生暖かい夜風に吹かれた。
出航の風情は、甲板で味わいたかった。
眼下の岸壁を見下ろすと、懐中電灯を持った係員さんたちが走り回って、船体と埠頭を結ぶ太いもやい綱を次々とはずしている。
甲板の巻き上げ機でスルスルともやい綱が引き上げられ、手すりを伝わってくる機関の振動が大きくなったかと思うと、船は岸壁を離れた。
長声1発がもの悲しく夜の港の空気を震わせる。
ほぼ定時の出航だった。

船は、大きく弧を描いて舳先を港外へ向け、速度を上げた。
ごちゃごちゃした大阪の街並みを背景に、フェリーターミナルの無骨な建物が、白い航跡の彼方に小さくなっていく。
穏やかにうねる大阪湾を、フェリーは滑るように航行し始めた。
幾すじもの光に照らし出された幾何学的な湾岸の工場地帯の夜景が、目の前を、ゆっくりと過ぎていく。
 
 
四国の南の果て、足摺岬の根元にある土佐清水への夜間航海だった。
思い出深い、1人の友人を訪ねるために、僕は「フェリーむろと」に乗り込んだのである。
この旅の2年前に、医師になって病院勤務を始めた時からの様々な思い出が、懐かしく脳裏を駆けめぐる。
 
同期で入職した女性医師がいた。
僕より1つ年上で、3人の子持ちだった。
医学部在学中に結婚し、出産した彼女は、専業主婦になるつもりで、卒業はしたものの国家試験を受けていなかった。
その後、ある事情からシングルマザーになってしまい、ブランクを埋めるために死に物狂いで国家試験の勉強をして、見事に医師になったのだった。
その病院で研修を始めたのも、家が近いだけでなく、職員が子供を預けられる保育施設があったからだったと言っていた。

2人だけの同期生ということで、何かと相談し合い、助け合い、そして愚痴を言い合った仲だった。
彼女の可愛らしいお子さんたちと、遊びに行ったこともある。
溌剌としたおませな6歳の長女さん、優しいけど泣き虫だった4歳の次女さん、まだ何にもわからずに愛嬌を振りまく2歳の長男クンの3人だったから、学業しながらの子育ては大変だったと思う。

その病院は、当時から著しい人手不足で、勉強にはなったものの、大変な激務だった。
僕は楽観主義者で、まあ、何とかなるさ、と、のほほんとしていたけれど、真面目な彼女は、病院のあり方や働き方、医師としての姿勢などについて、真剣に悩んでいた様子がありありと見てとれた。
3人の子供を育てる母親としての、生活との兼ね合いも難しかったのだろうと思う。
独り身ですら、初期研修では、いっぱいいっぱいになってしまう。
持ち前の明るさで、いつも笑顔を絶やさなかったけど、疲れが抜け切らない毎日だったはずである。

2年目の冬のことだった。
途轍もない重症の患者さんを、彼女が担当することになった。
まだ若い患者さんだったから、家族からのプレッシャーは大きかったに違いない。
先輩のベテラン医師の間でも意見が割れてしまうほどに、治療方針を立てることは難しかった。
残念ながらその患者さんが亡くなられた数週間後に、彼女は、土佐清水市にある病院への転勤を決めた。

その病院は、膠原病やアレルギー疾患に対する独特の治療法で知られていた。
有名だったけれど、主流と認められていた訳ではない。
学会では、どちらかと言えば、民間療法に近い評価をされていたような気がする。
彼女が挙げた理由は、長女さんにアトピー性皮膚炎があるからというものだった。
その病院は、アトピー治療に実績があり、治療のため、全国から患者さんが押しかけてくると聞いていた。
「フェリーむろと」の乗客の大半が、この病院の患者だと囁かれていた程だったのである。

彼女の父親の実家が高知市にあったことも、理由の1つだったのかもしれない。
それでも、土佐清水と高知は遠い。
最寄りの鉄道駅がある隣りの中村市でさえ、昔は流刑の地だった。
今でも、高知の人々は、

「中村は、京や大阪より遠い」

と嘆くのだと聞く。
土佐清水は、中村から、バスで更に1時間かかる。

病院のみんなが、彼女を止めた。
彼女は患者さんのみならず、看護師やスタッフからも人気があった。
小柄で、ちょっぴり童顔だったから、実際の年齢より遥かに若い印象だった。
彼女の家庭の事情を知る者ほど、他人事でなく心配したのだ。

しかし、次の4月に、彼女は、東京から1000㎞近く離れた南国の小さな港町に、3人の幼いお子さんを連れて引っ越してしまった。

少しばかり寂しくなった、病院の医局だった。
しばらくは、彼女の話題が上らない日はなかった。

どうしているのだろうか?
彼女は思いつめる一本気な性格だから、1人で悩んだりしていないだろうか?
自分たちの病院は、1人の研修医を潰してしまったのではないだろうか?

先輩医師たちが、そんな後ろめたさを感じているのは、何となく察しがついた。

「よし、同期のお前、行って、様子を見てこい!」

という話になったのも、自然の流れだった。
家族持ちの先輩の先生方が、簡単に行ける距離ではない。
時々、彼女と手紙をやりとりしていた僕は、もとより、言われなくても行くつもりだった。

僕の鞄には、お土産だけでなく、病院職員からの手紙や寄せ書きや贈り物が、入りきらないほど詰めこまれていた。
 

船室に戻って、弁当をつまみにビールをあおり、早々にベッドにもぐりこんだ。

ふと目を覚ますと、船は大きく揺れていた。
身体ごと、ぐぐっと持ち上げられてから、ふわっと落ちていく感じである。
淡路島を回りこんで、和歌山沖から、黒潮が踊る外洋に出たのだろう。
速力も上がって、エンジン音の響きや振動も大きくなっていた。
僕は、怖さとスリルが入り混じった不思議な感覚を味わいながら、布団にくるまっていた。
一等船室には窓がなかった。
甲板に出てみたい気もしたけれど、睡魔には勝てなかった。

次に目が覚めた時には、廊下で、ざわざわと複数の人の気配がした。
甲浦に着いたのだろう。
やはり起きる気力がなく、再び眠りに落ちた。
 
 
午前8時──

朝食の案内放送で、目が覚めた。
船内食堂の窓際席で、晴れ渡った青空とキラキラと輝く海原を眺めながら、和定食を食べた。

甲板に出ると、波間に踊る日の光と、爽やかな潮風が心地よかった。
間もなく、右手に足摺岬が近づいてくる。
切り立った断崖の上に立つ、白亜の灯台が小さく見えた。
実際に我が身をその上に置けば目もくらむような絶壁も、離れた海上から眺めれば、こんなに大人しく見えるものなのかと、いささか拍子抜けがした。
船は岬をかすめるように右へ転針して、速度を落とした。

舳先にゆっくりと近づいてくる土佐清水港は、小さな入り江の奥にあった。
背後に緑鮮やかな山並みが迫る、のどかでこじんまりとした漁港である。
このような大型フェリーが果たして入れるのか、と危ぶむほどであった。

案ずるまでもなく、滑らかに姿勢を変えたフェリーは、南国らしく強い日差しが降りそそぐ桟橋に、定刻9時40分に接岸した。
 
 
彼女は、3人のお子さんを連れて、迎えに来てくれていた。

その日は、彼女が働く病院を見せてもらったり、野生の猿がたくさんいる大堂公園で遊んだりして過ごした。
彼女もお子さんたちも、動物が大好きだった。
東京の彼女の自宅の近所にやってきた移動動物園で、4人で遊んだことを懐かしく思い出した。

車のハンドルを握るのは、僕である。
彼女は運転が苦手で、東京でも車で遊びに行く時は、僕に運転をせがむのが常だった。
3人のお子さんたちは、後部座席で大はしゃぎしていた。

あまり仕事の話などはできなかった。
彼女が勤める病院の職員が、みんな優しそうで安心した。
すれ違う患者さんたちも、いい表情をしているように見受けられた。
 
 
翌日は、土佐清水の町から15㎞ほど離れた足摺岬にドライブした。

僕は、昼すぎに中村行きのバスに乗らなければならなかった。
中村から特急列車で高知へ抜け、高知空港から羽田に飛ぶ最終便を予約していたのである。

前の日の朝にフェリーから眺めた岬の先端に立った。
横に彼女が並んだ。
実際に身を置けば、吸い込まれそうな断崖の縁だった。
風が強い。
足元の遥か下方に打ち寄せる白い波頭を見下ろし、果てしなく広がる水平線を眺めながら、僕らはしばらく黙っていた。
お子さんたちは、後ろで遊んでいる。
 
 
「あの子ね」

不意に彼女が口を開いた。

「夕べ、家に帰ってから、あなたが船から降りてくるところを絵に書いてたのよ」

おませな長女さんは、確かに、お絵描きが大好きだった。

「よほど、嬉しかったのね」
「寂しいのかな、こっちに来て」
「そうなのかも。お友だちはたくさん出来たみたいだけど、町が小さいからね」
「アトピー、良くなった?」
「うん、見違えるくらい」

お子さんたちに目をやる彼女が、一緒に働いていた頃より大人びて見えたのは、気のせいだったのか。

「元気だった?」
「うん」
「仕事、忙しい?」
「うん……でも、前よりは時間に余裕あるかな」
「運転、慣れたの?」
「任せて!東京の頃よりは、うまくなったんだから」
「来て良かったのかな?」
「うん!」

にっこりとうなずいた彼女の笑顔が、神々しいほどに力強く、そして美しく感じられた。
 
 
その後、足摺岬から土佐清水バスセンターに戻った車での道のりも、中村へ向かった路線バスや、高知行きの特急列車の乗り心地や車窓なども、全く覚えていない。
この旅の記憶は、彼女の笑顔で途切れたままなのである。
それで良いのかもしれない。その笑顔を、東京で待つ病院のみんなに報告できたのだから。

彼女からの手紙も、いつしか途絶えてしまった。
 
 
その後の「フェリーむろと」の運命は数奇なものとなった。
船腹に描かれた赤い鯨がトレードマークだった「フェリーむろと」は、運航会社の経営不振により平成9年に第3セクター「高知シーライン」に航路ごと譲渡される。
明石海峡大橋の開通が影響したものと言われている。
平成11年に、台風の突風に煽られた「フェリーむろと」は、甲浦港の防波堤に接触した後に座礁してしまう。
この事故をきっかけに経営難が悪化し、平成13年に航路は廃止された。

今や、僕にとって、彼女の記憶を紡ぐのは、「フェリーむろと」と入れ替わるように、平成15年10月に開業した大阪と中村・宿毛を結ぶ夜行高速バス「しまんとブルーライナー」号だけとなった。
平成19年の冬、「しまんとブルーライナー」号で宿毛まで行ってみた時に、彼女のことを思い浮かべて迷った挙げ句に、土佐清水へ足を伸ばすのはやめた。
その頃、僕は、後に妻となる女性と出逢ったばかりで、勤務する病院も変わり、新しい人生を目前にしていた。
宿毛からは路線バスで土佐清水とは正反対の方向に向かい、四国の西海岸に沿って宇和島に抜け、大阪行きの昼行高速バス「サラダエクスプレス」号で四国を後にした。
 
10年以上にも及ぶ歳月の流れを噛み締めながら、四国の海や山々を映し出す高速バスの車窓は、思い出にある光景と何ら変わりがなかった。
この美しい自然の中で子供たちと共に新しい生活を踏み出した彼女が、幸せに暮らしていることを信じていればいい、と思うことにしたのである。
 
  
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