S航空001便緊急着陸せよ!? | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

数年前の、ある土曜日のことである。
結婚して初めて九州の妻の実家を訪れるため、僕と妻は、羽田空港を早朝に離陸した福岡行きS航空001便ボーイング767型ジェット旅客機に乗っていた。

天候は快晴で、離陸後間もなく機長から、到着は予定通りで、気流も安定しているとアナウンスがあった。
快適な空の旅になりそうだった。
左側の遥か下方には、雪を抱いた富士山が流麗な全貌を見せていた。
歓声を上げながら、2人で見入ったものだった。

その時、不意に、切迫した声のアナウンスが機内に流れた。

『お客様の中に、お医者様がおられましたら、近くのキャビン・アテンダントにお声をおかけ下さいますよう、お願い申し上げます』

妻と僕は、思わず顔を見合わせた。
この職業に就いた以上、いつかは出くわすかも、と考えたことはあった。

まさか、本当に遭遇するとは……。

覚悟を決めて、席を立った。知らんぷりはできない。
妻が、頑張ってね、とうなずいた。


近くにいたキャビン・アテンダントに、機内の中ほどへ案内された。
もう1人、看護師だという女性がかがみこんで、トイレの扉の前の通路の床にぐったりと横たわっている男性の顔をタオルで拭いている。
男性は若く見えた。
30歳前後だろうか。
ネクタイを締めた、会社員風の身なりだった。
座席からふらふらと立ち上がったまま、倒れたのだと言う。
顔色は蒼白で、びっしょり冷や汗をかいている。

連れはいないらしい。
本人以外に、病歴を説明できる人はいないのである。

「どうしました?」

と聞くと、キャビン・アテンダントの1人が、固い表情を崩さず落ち着いた口調で答えた。

「あの、何か、お医者様と証明できるものはお持ちでしょうか?」

なるほど。
確かに、どこの馬の骨ともわからない人間に頼めないであろう。

しかし、呼び出しておいてその質問?──

と、一瞬むっとした。
途方にも暮れたけれど。
医師免状など持ち歩く習慣はない。
それにしても、こんな時に、医師でもない人間が名乗り出る可能性があるのだろうか。

「東京の◯◯病院診療部長の××です。内科医です」

と、名刺を見せてみた。

「なんなら、◯◯病院に連絡して、確認を取って下さっても構いませんよ」

本当に連絡をとっても、誰か僕を知ってる職員が対応してくれるだろう。
でも、病院の人たちは、飛んでいる飛行機から連絡があったらさぞかしびっくりするだろうなあ、と思う。

そこまでせずとも、どうやら信用して貰えたらしく、やっと診察させてくれた。

男性の意識は朦朧として、呼びかけに反応が鈍い。
JCS Ⅱ-10か20といったところか。
何とか自覚症状を聞き出すと、とにかく、胸が苦しくて吐きそうだという。

──げ!胸部症状だって?

既往歴や服薬歴は、全然、答えられなかった。
苦しいのと、意識レベルが低いのとで、長い文を理解したり、話したりできない様子に見受けられた。

体格は、やせ型だった。
どこか、か細い印象だが、精神的な症状には見えない。

キャビン・アテンダントが用意してくれたのは、聴診器と血圧計と体温計だけ。
何の機械の力も借りずに診察するなんて、今の医療現場ではまずあり得ないことだから、緊張する。

心臓の雑音や肺雑音は聴取されない。
頚静脈の怒張はなく、浮腫もなく、いわゆる心不全所見は認めない。
腹部は軟らかく、圧痛もない様子。ただし、腸の動きは弱い。
結膜の貧血や黄疸もない。
瞳孔も異常なし。
唇や爪のチアノーゼや、バチ指もない。
熱もない。
体温が低めだったのは、脇の下が汗で濡れているためか。
腕には注射の跡もない。
薬物中毒や、慢性疾患で、定期的に注射や採血をしているわけでもなさそうだ。

ただ、血圧が66/50mmHgと低く、脈拍も140bpmと速い。
そして、脈圧は弱い。
いわゆる、ショック状態だ。
呼吸は28bpm、速く浅い。

血圧低下と頻脈、頻呼吸。
低酸素血症があるのだろうか?
しかし、飛行機に、酸素飽和度を測定するパルス・オキシメーターなんて積んでないだろうから、確かめられない。
加えて、胸部症状の訴え。

「心電図計はありませんか?心筋梗塞を含めた、心臓の病気を否定しておきたいんです。若いから、滅多にないことだけど……」

キャビン・アテンダントが困惑顔で首を振る。

患者さんから病歴も満足に聞けない状態で、検査機器もない、高度1万メートルの密室。
血圧計と聴診器だけで、意識レベル低下と、ショック状態の診断をしろと言うのか。
病院なら、心電図や血液検査、レントゲンなどで、すぐさま診断の目処が立つのだけれど。


少しばかり途方に暮れていると、キャビン・アテンダントがインターフォンの受話器を差し出した。

「機長がお話ししたいそうです。お願いできますか?」

コードレスの受話器を受け取って、耳にあてた。

『機長の△△です。先生、どんな状態でしょうか?』

受話器の奥で、落ち着き払った声がした。
数百人の生命を預かる、プロの声だ。
現時点では、心臓疾患を否定できない旨を伝えた。

『緊急着陸が必要でしょうか?』

え?──

『今、緊急着陸するなら関西空港です。しかし、現在の高度が9000メートルを越えてますので、関空に降りるためには高度を下げなくてはなりませんから、40分近くかかります。福岡なら、あと60分くらいで着陸します』


僕は絶句して、思わず周囲を見回した。
機内に、ぎっしりと乗り込んでいる乗客。
ほぼ満席だろう。
福岡へ向かう数百人の旅を中断して、関西空港に緊急着陸するかどうか、僕に決めて欲しい、と機長が言っているのだ。
その差は20分。
だが、心臓疾患ならば、明暗を分けることもあり得る時間差だ。

「機長、少し待ってほしいです。もうちょっと、経過を見たい。このまま飛ばして下さい!」

思わずそう答えていた。
たくさんの人々に影響を与えかねない、人生最大の決断だった、と思う。

可能性は否定しきれないけど、僕の心のどこかで、心臓じゃない、という声がしていた。
経験に基づく、カンに過ぎなかったけれど。

心臓疾患の患者さんは何人も診た経験があるけど、目の前の男性の様子は、何かが違った。
30歳の心筋梗塞なんて、本当に稀のはず。
もちろん、先天性の心臓疾患や、凝固が亢進するような血液疾患をもっていれば別である。
だが、心臓疾患にしては若すぎるし、他の難病を長く患った徴候もない。
もし、そうならば、きっと真っ先に言うはずではないか?
言えなくても、薬手帳や、難病の書類を出そうとするのではないか。

一般の健常者にも起こりうることで、もっと、他に考えられることはないか──?

あっそうだ!──いや、まさか?

でも……。

「あなた、お酒、飲んでない?」

耳元で、大声で聞いてみた。
もう、ですます調なんかに構っていられなかった。
早朝便の客で、まさかね、と思いながらも。

男性が頷いた!

僕の背後で、キャビン・アテンダントが、えっ?とのけぞる気配がした。
看護師が、あ、そうか!と小さく叫んだ。

「これ、お酒の匂いだ……」
「飲んでるんですね?──たくさん?」

男性は喘ぎながら、目をつぶったまま、何度か首を上下させた。

後で聞いた話だが、男性は、飛行機恐怖症だったそうだ。
出張で、どうしても飛行機に乗る羽目となってしまい、怖さを紛らわそうと、搭乗前にしこたま飲酒したという。
しかも、お酒も弱いらしい……。

こらこら!

いくら気密構造になっていようが、高度が上がれば、機内の気圧は地表の8割程度に下がる。
普通ならば、人体に影響はない気圧である。
しかし、酸素も薄くなるから、一気にアルコールが身体中に回り、血管が拡張して、血圧が低下したのだ。
いわゆる急性アルコール中毒。
高度1万メートルでは、症状が強く出る。
山で飲む酒が回りやすいのと、同じ原理だ。

ならば、すぐ生命に関わることはないだろう。
自覚症状はつらいけれど、これ以上悪くなることは、まず考えにくい。
腹痛はな来していないようだから、急性膵炎でもない。
20分くらい治療開始が遅くなっても、生命には影響なく、福岡の病院で点滴すれば、充分だろう。

僕は、いつの間にか額ににじんでいた汗をぬぐって、ホッと胸をなでおろした。
男性が、重篤な病気ではなかったから。
そして、なによりも、アルコール中毒を心臓疾患と誤診して、数百人の旅を中断しなくて済んだことに。

──そんな責任、負わせないでよ、機長さん。

1時間後、S航空001便は、予定通り福岡空港に着陸した。