最近、物忘れがひどいのです。
元来、記憶力がいい方ではなかったのですけれど。
固有名詞が、特に苦手なのです。
人の名前や、薬の名前。
患者さんを診察していて、あっ、この症状にはぴったりの内服薬がある!と、ピンときても。
いざ、処方箋に書こうとすると、思い出せません。
ひどい時は、患者さんの話を聞いている時に薬剤名が頭に浮かんでいても、処方箋に書こうとすると忘れていたりするのです。
──なんだっけ?
と焦っても、患者さんの前では、顔には出しません。
薬の効能や副作用を説明しながら、悠然と、分厚い医薬品集をめくったりします。
記憶って、不思議なものですよね。
名前を忘れていても、薬の詳細な内容は覚えているのですから。
要は、固有名詞の問題なのです。
だいたい、日本は、薬の数が多すぎです。
同じ成分でも、複数の製薬会社が製造して、好き勝手な商品名をつけるものですから。
薬の添付文書を集めた医薬品集をなんて、2500ページくらいあるのです。
最近は、処方箋に、商品名でなく一般名を記載してもいいことになりましたけれど。
最近のジェネリック薬品は、一般名そのまんまやんけ、という商品名をつける傾向も増えました。
きっと、僕と同じように、薬の名前が思い出せない医師が、多いに決まっているのです!
さて──。
医薬品集だって、事典みたいなものなのです。
名前が思い出せなければ、索引をひくこともできず、全く役に立ちません。
ただ、作用別に分けている医薬品集もあるから、似た作用の薬を思い出せれば、その薬をひいてみて、近くのページに見つけることができる場合もあります。
全然、ダメな時は、やむなく院内薬局に電話します。
「忙しいところ、ごめんなさい。抗血小板剤で、バイアスピリンでもチクピロンでもアンプラークでもないヤツ、名前、なんてったっけ?」
なぜ、他の薬はスラスラ出てくるのでしょう?
『ホルタゾールですか?』
「う~ん違う。ほら、◯◯さんが使ってるヤツ」
『知らないですよぉ、誰ですか、それ?』
「透析の患者さんだよ。ええっと、1日1回飲むヤツ。AMIのPCI後とかに使うんだけど……なんか、俳優の名前に似てた気が……」
『プラビックスですか?(爆笑)』
「そう!それ!ブラピ!」
『先生?プラビックスですからね!『ぶ』じゃなくて『ぷ』!──先生の処方箋、この前もブラピックスって書いてありましたから!──ファンなんですか?」
別に、そんなことはありません。
ブラッド・ピットはカッコいいですけどね。
『セブン』なんか凄すぎて、おぞけふるいましたし。
目の前で、こんな会話がかわされる患者さんのお気持ちは、察するにあまりあります。
まあ、大抵、ニヤニヤしてるのですけれど。
人の名前も、なかなか難しいものです。
入職の時期から何ヶ月かがけいかしても、未だに、新人看護師さんの名前が覚えられないのです。
医療者は、みんな名札をつけているから大丈夫なことが多いのですが、看護師さんは、その上にエプロンを羽織っちゃってることも少なくなく、名札が隠れていることがあるのです。
目の前の看護師さんに仕事頼みたいのに。
ナースステーションなら、視線をちょっと転じて、ホワイトボードの勤務表を見れば、一発なのですけど。
そのような時は、しょうがないから、あなた、と呼びかけるのです。
「あなた、◯◯さんの酸素、3リットルから2リットルに下げといて」
そのうち、
「先生が、あなた、と私たちを呼ぶ時は、名前忘れてる時だよね」
と突っ込まれるようになりました。
さすがに看護師さんは鋭い!
今日の午前中──。
病棟の看護師長が近づいてきました。
「先生、△△診療所で往診している◇◇さんていう82歳のおじいちゃんなんですけどね──」
診療所からの入院依頼の相談です。
どうやら、独居で脱水になっているようなのです。
「どんな人?」
「それが、認知症があって、点滴とかすぐに抜いちゃうんですよね。御家族は忙しくて、なかなか来れないし。前の入院の時、苦労したような気がします。──私の記憶が確かならば」
その患者さんの入院手配を済ませてから。
「ねえ、さっきの『私の記憶が確かならば』って──」
「そう、私も、何だったかなあって考えてるんですよ。自分で言っといてナンですけど」
「なんだったっけ?誰かのセリフだよね」
別の若い看護師さんに聞いてみました。
「あっ聞いたことある!それ」
「何のセリフ?」
「何でしたっけ?」
静まり返るナースステーション。
みんな、それぞれの仕事を、黙々とこなしています。
「なぜかさぁ、『私の記憶が確かならば』って言うと、鹿賀丈史が思い浮かぶんだけど」
カルテを書きながら、ポツリとつぶやく僕。
「そうそう、鹿賀丈史のセリフですよ!」
うつむきながら、無言で仕事をしていたみんなが、いっせいに顔を上げました。
実は、みんな、考えてたのですね。
でも、鹿賀さんの、何のセリフでしたっけ?
あと一息で、記憶の底に手が届く感じなんですが──
絶妙の間のあとに、みんなの口が、一斉に開きました。
「料理の鉄人!」
心のモヤモヤが吹き飛んで、晴れやかなみんなの声がハモって、看護ステーションに響いたのでした。
誰だ?──1人だけ「古畑任三郎!」って言ったのは?
全然、確かじゃない記憶のお話でした。