ニューヨーク点描 第9章 ~「アセラ」(Acela Express)乗車記~ | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

簡素な改札口を抜けてワシントン・ユニオン駅の頭端式のホームに出ると、目の前に、Acela Expressののっぺりとした表情の機関車が出迎えてくれた。
発車時間が迫っているから、ゆっくりと眺めている暇はなさそうである。
列車の写真を撮っている僕を、妻が、急かすような表情で振り返っている。

Acela Expressの乗車券に記載されているのは号車の指定だけで、座席は自由だった。
車両は大柄で、指定された9号車まではかなり遠かったから、自然と足早になった。
車室の隅っこの荷物置き場にトランクを置き、

「ここに置いて、盗られたりしないかなあ」
「大丈夫、気をつけて見張ってるよ」

などと話しながら、座席に腰を落ち着けるやいなや、Acela Expressはゆっくりと動き出した。
日本のような発車ベルも案内放送もない。
多分、定時だったのだろうと思う。

JFKとレーガンを結ぶ国内線旅客機に乗った時の大変な手続きとは大違いで、気楽なことこの上なかったけれども、乗車は、あまりに発車間際に過ぎた。

$†ごんたのつれづれ旅日記†

自動車大国であるアメリカでは、大都市近郊区間を除けば、鉄道利用者がほとんどいない状況である。
大都市間の移動が、主に飛行機であることは、よく知られている。

アムトラックは、これまでもニューヨークとワシントンD.Cを結ぶ「メトロライナー」などの特急列車を運行していたが、利用者低迷にあえいでいたという。
阿川弘之氏の「南蛮阿房列車」に、請われてテコ入れを図るために訪米した、当時の日本国鉄技術陣が、阿川氏と、ニューヨークの日本料理店で寿司をつまんでいる場面が描かれている。

日本の関与がどの程度反映しているのかは知らないけれど、起死回生を狙って、アメリカ最大の人口密集地域を結ぶ「北東回廊」、ボストン-ニューヨーク-ワシントン間に高速列車を走らせようと、2000年に誕生したのが「Acela Express」なのである。
最高速度は時速215kmで、ワシントンD.C-ニューヨーク間の約360kmを、最速2時間47分で結んでいる。
ちなみに、ニューヨーク-ボストン間の最高速度は時速240kmである。
車両はフランスのTGVをベースにして、北米東海岸の沿岸部を走るため、車体はステンレス性だと言う。
そういえば、TGVに似ているような気もする顔つきだ。
僕は、今は廃車になってしまった東北・上越新幹線の初代2階建て車両E1系を思い出したが、「Acela Express」の先頭車両は機関車であり、日本の新幹線のような動力分散型の電車方式とは異なる。
客車にはモーターがないから、全く静かで、乗り心地は滑らかに地平を滑っていくようだった。

「Acela Express」は、ポイントをガタガタ鳴らしながら広大なユニオン駅の構内を走り抜けると、New York Ave.に沿って北東へ向かい、緩やかにカーブして真東に進路を変えた。
ワシントンの東を流れるアナコスティア川を渡り、森林に覆われた丘陵の合間を縫いながらも、ほとんど曲線を感じさせない、ゆったりした線形である。
ボルチモアの手前で、やや線路が曲がりくねってスピードが落ちるが、もともと、大したスピード感があるわけではない。

アメリカ版新幹線と呼ばれているとはいえ、高速列車専用の施設はなく、全区間が従来の在来線のままである。
ワシントン-ニューヨーク間には古い設備が残っていて、徐行を余儀なくされる区間も多いという。
しかし、東京-名古屋間に匹敵する距離を3時間弱で走破するとは、もちろん新幹線よりは遅いけれど、在来線の走りとしては決して悪くない。
日本の在来線特急は、新幹線ができる前には、東京と名古屋の間を4時間あまりかかっていたのだ。
そもそも在来線で最高速度200kmを超える速度が出せるとは、もともと余裕の設計だったわけで、羨ましい限りである。
本気を出せば、いくらでも物凄い高速鉄道を建設できるだろうに、と思う。


過ぎゆく車窓の大半は、線路際を雑木林が櫛の歯を引くように流れていくだけである。
モノクロームの映画を観ているかのように淡々とした、変わり映えのしない、大雑把な風景が続く。
木々の枝からは葉も落ちきって、冬らしい寒々とした沿線を眺めるだけの、昼下がりの特急列車であった。
目まぐるしいスピード感などは全く無縁で、

いつ時速200kmを超えたの?──

という感じだった。
東海道新幹線の東京-多摩川区間や、東北新幹線の東京-大宮間のような、ゆとりのある走りに似ていた。
高速鉄道に乗っているからと言って、速さを実感しなければならない理由はなく、予定通りに目的地に着きさえすれば構わないのだけれど。

Acela Expressの座席はファーストクラスとビジネスクラスだけに限られている。
日本の新幹線で言えば、グラン・クラスとグリーン車の組み合わせであろうか。
僕たちが乗っているのは、ビジネスクラスで、確かに値段も乗り心地もグリーン車に匹敵していた。
座席はすっぽりと身体を包み込むような柔らかさで、幅も前後のピッチも広く、ゆったりとくつろぐことができる。
この旅随一の豪華さだった。

ファーストクラスでは、食事と、酒も含めた飲み物がサービスされるという。
航空機を意識しているのだろうか。
特に、Acela Express車内販売限定のサンドイッチは、人気が高いらしい。

「この電車、乗り心地いいね」

と、妻は、飛行機にしようよと泣き言を言っていたのも忘れたようにはしゃいでいたが、そのうちに居眠りを始めた。
電車じゃないよ、とツッコむのはやめた。
妻の寝顔を眺めながら、お疲れ様、と、ささやいた。

これで、ひと安心である。
このAcela Expressに乗っていれば、間違いなく、ニューヨークのホテルのすぐ近くまで連れて行ってくれるのだ。

振り返ってみれば、羽田からの直行便をJFK空港で降りてからのワシントン往復は、気の休まる暇がなかった。
初めての異国での国内線飛行機、地下鉄、タクシー、そして鉄道……
目的地へ行くにはどうしたらいいのか、悩みっぱなしだったような気がする。
いわば、この旅で最大のヤマ場を、まだ慣れていない最初に持ってきたようなものだった。
無謀だったかな、とも思ったけれど、ワシントン往復の最終ランナー、AcelaExpressの座席に落ち着いて振り返れば、楽しい思い出である。

あと数時間で、今夜の宿に着くことができる。
このアメリカ旅行で、もう、遠くに移動する予定はなかった。
残りの日々は、ニューヨーク市内をじっくりと観光するつもりだった。

すっかり安堵した僕らを乗せて、Acela Expressは、速いと思えば速いような、遅いと思えば遅いような、せせこましい島国の人間から見たら中途半端な走りっぷりで、北上していく。
快晴だったワシントンを出ると、いつしか空は雲に覆われて、寒々とした、変化に乏しい車窓が続く。
目まぐるしい日本とは異なる、大陸の風景だった。

車内は程よく空調が効いて、別天地のようであり、座り心地のいい座席と静けさで、妻でなくても眠気に誘われる。

$†ごんたのつれづれ旅日記†

検札に回ってきた車掌さんは、制服の着こなしがちょっぴりだらしなかったけれど、ニコニコと陽気な感じの赤ら顔のおじさんだった。

「Welcome on board!」

制帽のひさしをちょっと持ち上げて、節をつけて歌うように愛嬌を振りまきながら、僕らの差し出す乗車券をチェックしていく。

「Oh、New York Pennsylvania Station、○×△◎□、thank you!」

と、おどけた様子で喋りながら、妻と僕に笑いかけて、他の席に移っていく。

到着駅を告げる車内放送も、早口でよく聞き取れないながら、単語をはっきりと抑揚をつけて区切るから、まるでラップのようにリズミカルで、聞いているだけで顔がほころんだ。
声質が似通っていたから、改札に来た車掌さんがアナウンスしていたのだろうと思う。

「This train will make a brief stop at Baltimore Pennsylvania station!── Next、Penn station! Baltimore!」

流暢だがとり澄ました調子の航空機のアナウンスとは違って、暖かみを感じさせる。
日本でも、時々、聞き惚れてしまうような名調子の車掌さんがいるけれど、Acela Expressの車掌さんも同じなのかもしれない。

ボルチモア市街に入る手前で、ボルチモア・ワシントン空港の敷地が見えた。

まだワシントンなの?──

と一瞬戸惑ってしまうけれど、これはニューヨークのJ・F・ケネディ空港やワシントンレーガン空港と同じく、ワシントン大統領の名を冠したボルチモアの空港である。
つくづく、人名の国、英雄の国だと思う。
古い歴史があるわけではないから、地名が熟成されずに、人名を使うしかないのだろう。
日本でも、京浜工業地帯のJR鶴見線の駅名のように、歴史の浅い埋立地などでは、人名が使われている。
気をつけないと、レニングラードとスターリングラードのように、時代の価値観の変化によって、地名を変えなければならなくなるのだが。

$†ごんたのつれづれ旅日記†

行く手に、古びた街並みが近づいてきた。

1797年に誕生したアメリカで最も古い街。
アメリカ国歌誕生の地、アメリカ初の鉄道が敷かれた街としても知られる、メリーランド州ボルチモアは、大西洋から深く切れ込んだチェサピーク湾の奥に位置して、インナーハーバーなど港湾に関連した観光地が多い。
しかし、アムトラックの線路は、ダウンタウンのごちゃごちゃした街並みをくぐり抜けるだけで、ひとかけらの海も見せてくれないまま、停車駅のペンシルバニア駅に滑り込んだ。

話が先走るけれども、僕らの目的地、ニューヨークでのAcela Expressの停車駅もペンシルバニア駅である。
その手前のニューアークのアムトラック駅も、ペンシルバニア駅。
欧米のターミナル駅は、線路の行き先の地名を駅につけることが多いと聞く。

降車客はほとんどいない様子だった。
それもそのはず、ワシントンとボルチモアの間は、わずかに60kmしかない。
しかも、MARC Trainと呼ばれる平日のみ運行の通勤通学列車が頻繁に走っている。
Acela Expressの窓からも、ホームの反対側に停車中のMARC Trainの、銀色の客車が見えた。

$†ごんたのつれづれ旅日記†

大きな屋根と駅舎の建造物に光を遮られて、薄暗い感じのホームは、閑散として乗車客もほとんどいなかった。
ひと息ついただけのAcela Expressは、再びすーっと静かに走り始める。
市街地を碁盤目のように走る街路の高架を、幾つもくぐり抜けながら、速度が少しずつ上がっていく。

珊瑚礁の枝先やヒトデの触角のように、細かく枝分かれして内陸に食い込んでいるチェサピーク湾をかすめて、Acela expressは北東へ向かう。
カニングヒル湾やブッシュ川といった、チェサピーク湾の北端の入り江を、長大な橋梁で渡っていく。
地図では湾と川に区別されていても、車窓から見ているだけでは、どちらも広大な湖のようで、全く違いがわからなかった。
そもそも、橋梁と水面の高さが非常に近いので、地図を見るまでは、湖畔の盛り土部分でも走っているのかと思ったほどだった。

$†ごんたのつれづれ旅日記†

$†ごんたのつれづれ旅日記†

あまりに規模が大きすぎて、まるで時が止っているかのような車窓の無聊を慰めてくれたのは、時々すれ違う列車や、引き込み線に停まっている機関車だった。

子供の頃に見た写真や映画、テレビなどで憧れていた、アメリカ大陸を縦横に駆け巡る無骨で巨大な機関車や、流麗なシルバーの客車が、それほど頻繁ではなかったけれども、時折、車窓をかすめ過ぎていく。

$†ごんたのつれづれ旅日記†

$†ごんたのつれづれ旅日記†

車内には、滑らかな走行音と、タタン、タタン、という軽快な線路の継ぎ目のリズム以外は全く聞こえない。
しかし、他の列車や車両が窓外に見えるたびに、僕の耳には、パォー! というアメリカの機関車独特の太く甲高い警笛が聞こえるような気がしたものだった。
夢でも幻でもなく、現実にアメリカの汽車に乗っているんだ、と思うと、ゾクゾクするような興奮がこみあげてきた。

「ねえ、おなか、すかない?」

いつの間にか目を覚まして、外を眺めていた妻が言った。
妻は鉄チャンではないから、可愛そうなことに、変わり映えのしない車窓に飽きてきたのかもしれない。

「じゃあ、売店みたいなものがあるか、探してみるよ」
「そういうの、この電車にあるのかしら?」

自信はなかったけど、あるんじゃないかと踏んでいた。
これほどの豪華列車に、1回も車内販売が来ないのだ。
ならば、食堂車か売店のようなものが何かしらあるのではないだろうか、と思ったのである。

それに、通路の向かい側の1人旅の御老人が、先ほど、前方に歩いて行ったまま、10分以上も帰ってこない。
お腹をこわしていて、長い長いトイレなのかもしれないけれど、そんな険しい表情ではなかったように見受けられたから、僕は、とにかく前方に向かって歩いてみた。

ビジネスクラスの車両を2つ通り抜けた先に、ありました、ありました。

アメリカでは、このような車両を何て呼ぶのかは知らないけれど、数席の簡易座席がある喫茶室があり、そこで、あの御老人が、のんびりと車窓を眺めながらビールの入った紙コップを傾けている。

$†ごんたのつれづれ旅日記†

日本で言えば、数十年前に新幹線や急行列車に連結されていたビュッフェに似ている感じだった。

幼い頃、家族で信越本線の急行「信州」に乗って東京に行った時、父親と行ったのが、僕の唯一のビュッフェ体験だった。
アメリカの列車内で、そのような遠い思い出が脳裏に浮かぶとは、ちょっぴり自分でも驚いた。
日本のビュッフェは、座席のない立ち食いで、半車だったけれども、Acella Expressの喫茶室は1両まるまる占拠して広々としていた。。

スナック菓子や飲み物が並んでいるカウンターの中では、黒人のウェイターが忙しそうに立ち働いている。
御老人の他に客はいなかったから、ファーストクラスに出す料理でも作っているのだろうか?

Hello、と声をかけて、窓口に置いてあるメニューを見ながら、ピザとポテトを温めてもらい、ビールと一緒に購入した。

座席に戻って、妻と、ワシントン見物の無事を祝って乾杯し、2人で半分ずつ、アツアツのピザとポテトをつまんだ。
ニューヨークのJFK空港で軽食を食べたきり、ワシントンでは昼食を摂っていなかったから、その代わりである。
アメリカ東部時間で言えば真夜中に当たる、羽田からの飛行機の中で食べた3食のことは、すっかり忘れて、朝からきちんと食事をしている2人なのであった。

機内食を入れれば5食目……

線路沿いに枯れたような雑木林が並ぶだけの平坦な地形を、ボルティモアから100kmあまり走り抜け、Acela Expressはデラウェア州に入った。
あまり馴染みのない名前の州だけれど、1787年に合衆国憲法を批准した第1番目の州という輝かしい歴史を持っている。
ニックネームも「1st. State」と呼ばれているらしい。
ただし、面積は全米で2番目に小さい。

州都ウィルミントンのジョセフ・バイデン駅は、周囲に大きな建物があるわけでもなく、あっけらかんとして、郊外の新興住宅地の私鉄駅、といった感じだった。
19世紀に火薬生産で成長した化学企業デュポン社のお膝元だという。

$†ごんたのつれづれ旅日記†

大西洋から内陸に切れ込んだデラウェア湾がそのまま川になっただけのデラウェア川に沿って、線路は東へ向かう。
川と言っても、幅は1kmくらいはありそうだった。
地図を見ないと、川沿いなのか湖畔なのか、はたまた海岸なのか、見当がつかないというのは、日本の車窓では考えられない。
アメリカの旅だなあ、と思う。

ペンシルバニア州に入り、くすんだ埃っぽい建物が沿線に増え、人気が全くないゴーストタウンのような古びた街並みを通り抜けると、黄昏の向こうに高層ビル群が見えてくる。
ギリシャ語で兄弟愛を意味するという、フィラデルフィアだ。

ウィルミントンとフィラデルフィアの間は約50kmである。

$†ごんたのつれづれ旅日記†

1776年7月4日、イギリスから独立を宣言した、アメリカの原点とも言うべき街である。
その日、フィラデルフィアの街中に、独立宣言の採択を知らせる「自由の鐘」(Liberty Bell)が鳴り響いたという。
ワシントンが首都になるまでは、この街がアメリカの首都であった。
今日の合衆国政府の原型がこの街で形づくられ、憲法の制定も行われたのだ。

様々な名所・旧跡を持つ古都・フィラデルフィアだが、Acela Expressの窓から眺めれば、廃墟のような荒れた雰囲気の建物ばかりが目立った。
黄昏が車窓を覆いつつあったからかもしれないけれど、まるで街そのものが、手入れもされずに放置された博物館、といった印象を受けた。
高層ビルが林立する市街地に近づけば、そんな印象は払拭されるかと思ったけれども、線路端に視線を転じれば、赤茶けた煉瓦塀が崩れたまま放っておかれていたり、稼働をやめてかなりの歳月が経過しているらしい廃工場が、朽ち果てた抜け殻のようにたたずんでいたりする。
保存されて整った歴史ではなく、容赦なく移り変わっていく歳月の凄みを感じさせる、アメリカの古都のたたずまいだった。

アムトラックの線路は、フィラデルフィアの市街地には入らない。
デラウェア川の支流・スクーキル川を挟んで対岸にある、30th.Steet駅の広大な構内を抜けていく。
市街地の北側を迂回してから、デラウェア川の北岸に沿って、北東へ向かう。

穏やかだが冷たそうな、ヴァン・サイパー湖の藍色の湖面が、線路の左右に広がった

ここも、海にしか見えない。
中州をしばらく走り、その先で大きく西に蛇行するデラウェア川を渡って、ウィルミントンから連れ添ってきた川に別れを告げると、Acela Expressは速度を上げた。
ニューヨークまでのラスト・スパートは160km、およそ1時間の予定であるが、地図の上では、ほとんど曲線が見られない。

フィラデルフィアの30th St.駅からは大勢の乗客が乗ってきて、車内の座席が2/3ほど埋まった。
ビジネス特急らしく、話し声はほとんど聞こえず、誰もが自分の殻に閉じこもっている。
検札をする車掌さんの陽気な声だけが、途切れ途切れに聞こえてくる。

ニュージャージー州に入り、エリザベスの街の手前で線形が左右に振られて徐行する頃になれば、ニューヨークは目前である。

$†ごんたのつれづれ旅日記†

$†ごんたのつれづれ旅日記†

最後の途中停車駅、ニューアークに着く頃には、再び空の雲が消えて、西日がガラス張りのビルの壁面をまばゆく照らし出していた。
ホームの反対側に見えた小綺麗な赤い建物は、古い駅舎だろうか?

Acela Expressは、長旅の余韻をかみしめるかのように、速度を落とし始めた。
大西洋から深々と内陸に切れ込んでいるニューアーク湾の北端で、絡みながら蛇行する河川を次々と渡る。
ジャージーシティを越えると、緑の木々の梢が流れる車窓の彼方に、摩天楼が霞みながら見えてきた。

$†ごんたのつれづれ旅日記†

「ニューヨークだよ! ついに来たよ!」

僕は、満腹で眠り込んでいた妻を揺り起こした。

「え?──あれが、ニューヨークなの?」

と、妻もいっぺんに眠気が吹き飛んだような面持ちで、目を見張った。

東京を発って、ほぼ24時間が経過していた。
とうとう、僕らは、最終目的地のニューヨークの街並みを目にしたのだ。

感慨にふける暇もなく、Acela Expressは、ハドソン川をくぐる地下トンネルに潜り、車窓が一瞬にして暗転した。
ニューヨーク・ペンシルバニア駅の地下ホームに滑り込んだのは、午後5時前だったと思う。
慌てていたのか、疲れていたのか、時計を見なかった。
停車時間がわからないから、大きなトランクを懸命に引きずって、大勢の降車客に取り残されないよう、慌ただしくホームに降り立った。

$†ごんたのつれづれ旅日記†

$†ごんたのつれづれ旅日記†

$†ごんたのつれづれ旅日記†

隣りのホームには、Acela Expressと同じく北東回廊を結ぶアムトラックの「Regional」が停車していた。
無骨な機関車と、丸っこいシルバーの客車で、こちらの方がアメリカらしい外観である。
座席はビジネスとコーチクラスの2種類で、日本で言えばグリーン車と普通車となろうか。
料金はAcela Expressより割安で、停車駅が多いにも関わらず、所要時間は40分ほどしか違わないらしい。

Acela Expressを降りた大勢の人の波に揉まれるように、狭い階段を登り、改札もないまま駅のコンコースに出た。

「Madison Square Garden」と書かれた案内表示に従って歩き、コンコースの突き当たりのエスカレーターで地上に出ようとすると、そのエスカレーターは動いていなかった。
やむを得ず、妻のトランクも僕が持って、止っているエスカレーターを登ると、薄暗い回廊のような場所に出た。
いきなり人通りが減り、通路のあちこちに眼光の鋭い若い黒人たちがたむろして、僕らをじろじろと見つめながら近寄ってくる。
不意に、けたたましくホイッスルが鳴り響き、1人の制服警官が大声を上げながら、その黒人たちを追い払うように手を大きく振り回した。

僕らは狙われたのか?──

エスカレーターが止まっていたということは、来てはいけない場所に迷い込んでしまったということだろうか?

怯えたような妻の手を引いて、足早に通路を通り抜けて外に出ると、いきなり、僕らを取り巻く風景が激変した。

そこはニューヨークのミッドタウン、31th Streetと8th Avenueの交差点だった。
びっしりと視界を塞いで林立する高層建築物と、めくるめくきらびやかなネオンに、まず、目がくらんだ。

広い街路を埋め尽くす、車、車、車。

まばゆく交錯するヘッドライトとテールライト。

ひっきりなしに鳴り響くクラクション。

歩道や横断歩道から溢れ、交通信号など無視して、渋滞する車の合間を軽やかな足取りですり抜けていく、膨れ上がった人々の波。

$†ごんたのつれづれ旅日記†
$†ごんたのつれづれ旅日記†
$†ごんたのつれづれ旅日記†
$†ごんたのつれづれ旅日記†
$†ごんたのつれづれ旅日記†
$†ごんたのつれづれ旅日記†

それまでまったりと流れていた時間は、どこかへ吹き飛んでしまい、いきなり、時計の針がぐるぐると早回りを始めたかのような感覚だった。

アダージョで穏やかに演奏されていたクラッシックが、いきなりアンダンテを通り越してアレグロへ。

いや、流れるようだったスロー・バラードが、ビートの効いた激しいロックになったかのように。

静まりかえった飛行機の機内や、眠ったようだったワシントンの街並み、Acela Expressのもどかしいほどのんびりした車内とは、180度異なる舞台転換だった。
東京から大阪へ、またはその逆を新幹線で移動しても、これほど、街の際立った個性の違いを感じることはない。

目まぐるしく変化し、テンポがやたらと速い世界に、ペンシルバニア駅を出たばかりの僕たち2人は、瞬間的に放り出されたのだった。


↑よろしければclickをお願いします m(__)m