追悼 阪神大震災(1)~運行中、激震に遭遇した夜行高速バス~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成7年1月17日午前5時46分───

M7.2・最大震度7という巨大地震が阪神地域を襲いました。
眠っていた街は、僅か10秒の揺れで一瞬のうちに壊滅。
近代建築がもろくも崩れ落ち、火災が家々をなめ尽くして、6000名もの尊い生命が犠牲になったのです。

夜間の旅客輸送の主役である夜行高速バスは、営業運転中に地震の直撃を受けた数少ない公共交通機関の1つでした。
その瞬間、乗員乗客や営業所の運行管理者は、どのような状況に置かれ、どのように行動したのでしょうか?

また、麻痺状態に陥った鉄道に代わる代替バス輸送が脚光を浴びたことも見逃せません。
地域輸送や都市間輸送でバスが果たした役割は、計り知れないほど大きなものでした。

あれから18年。

先日、1/17に阪神大震災を振り返りながら、久しぶりに本棚の奥から引っ張り出して読み直した、僕がある雑誌に書いた文を御紹介させていただきます。
バスファンですから、被災地輸送を支えたバスの動向を追った記事ですが、そこには、震災当日の惨状と、その後の悲しみを乗り越えて力強く生きていこうとする人々の雄々しい姿が浮き彫りになっていたと思うのです。

── ◇ ── ◇ ──

~激震の直撃を受けた夜行高速バス~

阪神大震災が、地域の生命線である交通機関に与えた被害は甚大だった。
高架もろとも駅舎に落ち込んだ電車、横倒しになった高速道路などの写真は、事あるごとに新聞やテレビに映し出された。
地震の発生が早朝だったため交通機関がほとんど動いていなかったにも関わらず、JR、阪急、阪神各線で計15本の列車が脱線、39名が負傷した。




深夜から早朝にかけての国内輸送の主役は道路交通である。
崩壊した高速道路から転落したり、橋桁の下敷きになったトラックや乗用車では、多くの死傷者が出た。
最近は、夜間の旅客輸送の大半を夜行高速バスが受け持っている。
定期路線のみならず、スキーバスなどの観光需要も少なくなかった。
被害が最も大きかった神戸市内を発着する夜行高速バスは(当時)11路線。
更に、西日本から大阪・京都・奈良方面に向かう路線を含めると、地震発生時には40本近い夜行バスが被災地付近を走行していた。
各路線1台ずつの運行としても、乗客総数は1000人を上回る。

震災後、神戸発着の夜行11路線を運行する15のバス事業者に当時の状況を伺うアンケートをお願いしたところ、9社から回答をいただいた。

走行中に激しい揺れに見舞われたバス。
波打つ道路にとられるハンドル。
破壊と長引く渋滞のため、一向に進まない道路の大渋滞。
目的地の街が瓦礫の山と化していることを知らされた時の驚きと衝撃。
寸断された旅の途上で、恐怖と不安と戸惑いが車内に交錯した。

アンケートの結果を踏まえて、震災当日に神戸付近を運行していた幾つかの高速バスのケースを紹介する。




■鹿児島発三宮・尼崎行き「トロピカルライナー」

鹿児島-尼崎線の1/16発上り便は鹿児島のK交通バス担当。
1台運行で乗客数25名だった。
1/17午前5時46分には震源から西へ20kmほどの姫路バイパス高砂料金所付近を走行中だった。
地震は車内でもはっきり感じられ、眠っていた乗客の多くも異常な揺れに気づいたという。
第2神明道路に進んだが、6時半、神戸市に入ったばかりの須磨ICで規制を受け、国道2号線に降ろされた。
既に渋滞が始まっていた。
ラジオで道路情報を確認しながら、警察等の指示を受けつつ細心の注意を払って進んだものの、路面に生じた亀裂や段差がひどかったという。
乗客も大災害になっていることを知り、覚悟を決めた様子だった。
午前7時、なかなか通じなかった営業所との電話がようやくつながり、車内の様子や道路状況を報告するとともに、行き先の浜田車庫は無事との情報が得られた。
車内テレビでニュースを流し、三宮駅へ立ち寄ることは困難であり、阪神甲子園駅と同尼崎駅を経由して浜田車庫まで運行する旨を乗客に伝えた。
しかし、道路は避難民や乗用車、緊急車両で溢れ、1時間に100m程度しか進まず、立往生も同然の状態だった。
国道2号線は市内東半分が不通で、唯一残された湾岸沿いの国道43号線に車が集中したのだ。
丸1日かかって神戸市内を通過しつつ、希望者は安全な場所を選んで途中で降車させる措置をとった。
車内で日付が変わり、18日早朝から阪神電車が甲子園-梅田間で運転を再開するとの情報が入り、残っていた乗客全員が自発的に阪神甲子園駅で下車。
阪神尼崎駅には寄らずに浜田車庫へ回送した。
須磨ICから浜田車庫まで、24時間を要したという。

■川崎発三宮行き「サラダエクスプレス」

この日は地元H電鉄バス1台の担当で、乗客数は29名。
阪神尼崎駅と同甲子園駅で一部の乗客を降ろし終え、5時46分には神戸市東灘区の阪神高速神戸線魚崎付近を三宮に向けて走行中だった。
高架橋が横倒しになった同区深江本町のすぐ西であり、バスを襲った揺れの激しさは想像に難くない。
稲妻のような光が走った途端、高速道路の電灯が消え、次の瞬間30秒くらい大きな横揺れが続いた。
道路は繫ぎ目の部分で大きな段差ができており、車が何台も玉突き事故を起こしていた。
街の方を見下ろすと、あちこちで火の手が上がっていたという。
「サラダエクスプレス」の運転手さんは、バスの姿勢を維持するのに精一杯だったという。
周りの路面が隆起し、危険を感じたため、魚崎ランプから強行に地平の一般道へ降りた。
営業所に電話がつながり、阪神高速を降りた件と全員の無事を報告。
地震発生直後のため、ラジオや道路標識は道路情報を流しておらず、参考にならなかった。
惨禍の真っ只中に放り込まれた乗客は不安を感じている様子だったが、乗務員が冷静に案内したため、何とか平静が保たれたという。
国道43号線から国道2号線を注意深く進み、凄惨を極める三宮駅前まで運行することができた。
地震発生時には三宮まで7~8kmと目と鼻の先まで来ていたにも関わらず、大渋滞と道路の破壊に阻まれて、三宮に到着したのは午後2時頃だった。

■城辺・宇和島発三宮経由大阪行き「サラダエクスプレス」「ウワジマエクスプレス」

城辺を前夜に出発した大阪行き夜行高速バスは地元のH電鉄と宇和島のU自動車が1台ずつ担当し、乗客総数は77名だった。
三宮で一部の乗客が降りた後、地震発生時には西宮市内の阪神高速上り線今津付近を梅田に向けて走行中だった。
高架がジョイント部分から真っ二つに折れるなど、名神・阪神高速合わせて数カ所に被害が集中した西宮JCTのすぐ近くにいたのである。
運転手さんは、その場にバスを急停車させた。
道路が崩落したため、高速道路上に閉じ込められてしまったのである。
営業所に連絡をとると、運行を中止し、車両はその場へ留置、最寄りの阪神今津駅まで乗客を誘導するようにとの指示を受けた。
乗客は動揺していたが、地理に詳しい地元の運転手さんが両方のバスの乗客を適切かつ安全に誘導したため、混乱はなかった。
非常用通路を使って高架を降り、全員無事に今津駅まで避難することができた。
しかし電車は全てストップしており、道路事情の悪化から代替バスの手配もままならず、あとは乗客個々の裁量に任せるしかなかったという。

■渋谷発三宮・姫路行き「プリンセスロード」

その日の担当は地元のSバスが2台で運行していた。
地震が発生したときには名神高速の豊中-尼崎間を走行中で、揺れは激しく車内に伝わり、運転に危険を感じるほどだった。
ほとんどの乗客も目を覚ました。
尼崎-西宮間で名神高速の橋桁が落下して「通行止」の表示が出ていたため、尼崎ICで一般道に降りたが、道路の損壊が激しく徐行を余儀なくされた。
家や家族を心配する乗客のために車内にラジオを流し、営業所に連絡をとったところ、三宮には寄らずに姫路に直行するよう指示された。
どのような経路をとったのかは不明だが、姫路に到着したのは午後13時20分だった。

■福岡・小倉発姫路・三宮行き「プリンセスロード」

前夜、福岡を出発した上り便は地元Sバス1台の担当で、乗客数は24名だった。
定刻より早めに姫路での降車扱いを終え、5時46分には姫路市内を走行中だった。
地震ははっきりと感じられ、ハンドルがとられそうになるほどだったが、運転手さんは最初、何が起きたのかわからなかったという。
乗客も気づかない様子だった。
震源からやや離れていたため、これまで紹介してきたケースに比べて揺れが小さかったようである(姫路は震度4)。
ラジオで地震発生を確認した後に、乗客に案内放送をした。
営業所との宴楽がつかず、道路情報が全く把握できない中で、姫路バイパス・第2神明・阪神高速などの有料道路が「全線通行止」になっていることだけは知ることができた。
しかし、ほとんど孤立状態に置かれたにも関わらず、地元事業者の強みを生かして、運転手さんたちはうまく迂回路を選び、午前8時に三宮駅に到着したのである。

■熊本発姫路・三宮・垂水行き「レッツ」

熊本-垂水線は地元S電鉄バスの担当で、乗客数は13名だった。
うち6名を姫路で降ろし、姫路バイパス姫路南IC付近を走行中に震災に遭遇。
営業所との連絡を試みたが、電話は不通だった。
電光掲示板は停電のため表示がなく、道路状況を把握できない。
加古川バイパスに入って、営業所の移動無線をキャッチすることができた。
地震情報を得るとともに、三宮駅と垂水駅での停車をやめ、学園都市駅前から垂水車庫へ入庫するよう指示を受けた。
営業所から、乗用車で垂水駅へ乗客を送る用意をしておくというのだ。
乗客はほとんど起床しており、テレビでニュースを流すとともに営業所からの連絡内容を案内した。
第2神明道路から阪神高速北神戸線へ。
前開IC付近では路面に亀裂が生じており、徐行を余儀なくされたが、無事学園都市駅を経由して垂水営業所に到着。
乗客を垂水駅まで送り届けた。
被害が帯状に集中した湾岸沿いに運行した他のケースと違い、「レッツ」は、西区・垂水区などの被害が比較的少ない神戸市西北部を走行して退避したわけである。

■野沢温泉発京都・大阪・三宮行きスキーツアーバス

前夜に信州を発ったツアーバスの担当は京都のT観光バス。
乗客数は43名だったが、京都・大阪で大半が降車し、西宮市内の阪神高速高架を走行中だった地震発生当時の車内には、20代の女性客3人と2人の運転手さんの計5名だけだった。
前方で突然、不思議な閃光が走った直後、激しい横揺れがバスを襲った。
運転手さんはハンドルをとられ、必死でブレーキを踏んだ。
続いて縦揺れで路面が大きく波打ち、車体が跳ねた。
前も見えない。
止まった、と思った瞬間、バスの前輪がガクンと落ち、上半身がつんのめった。
顔を上げると、前方の路面がジョイント部分から「ドシャーッ」と崩壊していた。
反対車線の乗用車が、約8m下へ、映画のシーンのように吸い込まれていった。

「落ちる!」

運転手さんは覚悟しながら、エンジンを切って力一杯サイドブレーキを引いた。
交替運転手さんが右後部の非常口に走り、中程の座席で眠っていた3人の女性を揺り起こして抱きかかえるように路面に降ろす。
暗かったが、潰れた車が見えたという。
5人は高架道路上を東へ1.4km歩いて、非常階段から地平へ降りることができた。
路上では、崩れた高架道路の下敷きになって炎上するトラック。
地獄絵図のようで、逆に現実味がなかったと、後に運転手さんは話している。
阪神今津駅の公衆電話から会社に電話したが、

「バスが落ちかかってるんや」
「そんなアホな。車検証は持って帰れ」

と信じてもらえず、運転手さんたちは再びバスまで戻って車検証を取り出し、電気の消えたコンビニで使い捨てカメラを購入し、下から見上げる形で、寸断された高架から前輪を落として引っかかっているバスの写真を撮影したという。
道には、呆然と座り込んだり、押し黙ったまま立ち尽くす人々。
ガス臭く、煙草を吸うのもためらわれた。
タクシーを探すのに昼過ぎまでかかり、全身が冷え切ったという。

■白馬発大阪行きスキーツアーバス

岡山県Rバスのスキーバスは、大阪で客を降ろし、岡山へ向けて回送中だった。
阪神高速で西宮を過ぎ、5分ほど走った京橋ランプ付近で、突然、左側車線を併走するクレーン車が幅寄せのように接近し、接触した。
その時点で、運転手さんは地震には気づかなかったという。
クレーン車に弾かれるようにバスが右側へ流れた次の瞬間、右下から突き上げられるような衝撃が感じられた。
正面を見ると、路面が、まるで岩国の錦帯橋のように波うっており、初めて、地震と気づいた。
周囲の明かりが全て消えた暗闇の中で、取りあえずバスを停車させ、車外に出て懐中電灯で点検すると、左側の窓からクレーン車の部品が飛び込んだためガラスが破損していた。
乗客が乗っていたら重大な人身事故になっていたと思うと、背筋が寒くなったという。
その間も大きな余震があり、何かにつかまっていないと立っていられなかった。
高架の中央に立つ水銀灯の支柱が大きく左右に揺れていた。
直感的に、早く高架から降りないと危ないと思った運転手さんたちは、窓をガムテープで応急修理し、急いでバスを発車させた。
暗闇の中、あちこちで爆発音が聞こえ、火の手が上がった。
早く逃げたい、と思いながら夢中でバスを走らせたが、柳原ランプを過ぎたところで、車の流れがつかえてしまった。
不思議なことに、後続の車が全く来なかったため、バスを注意深くバックさせて柳原ランプから地平に降りた。
高架橋を支えている柱のコンクリートが砕けて、鉄骨が剥き出しになっていた。
阪神高速の高架から落下する破片を避けながら側道を走ったが、信号は消え、交差点では行き交う車のクラクションが怒号のごとく鳴り響いていた。
沿道には逃げ惑う大勢の人々がおり、まるで地獄図でも見ているかのようだった。
対面の国道2号線の上り車線は至る所で事故が起きていて大渋滞だった。
地震発生から40分後、須磨のあたりで消防車の姿を見かけるようになり、交通整理も始まっていた。
道路脇の建物は大半が瓦礫の山と化しており、悪夢のような光景だった。
国道2号線を必死で西進し、午前10時頃に高砂市のドライブインに滑り込んだ。
そこもかなりのダメージを受けていたが、公衆電話で会社と連絡をとることができ、状況を報告した。
通行不能の姫路方面を避けて竜野を迂回、太子町から再び国道2号線に戻って、岡山市の営業所に到着したのは午後1時半だった。

── ◇ ── ◇ ── ◇ ──

運行中に震災の直撃を受けた高速路線バス・ツアーバスが遭遇した、被災地の息を飲むように凄惨な状況が見えてきます。
まだ携帯電話もさほど普及していなかった時代でしたから、情報不足に悩みながら災厄の街を走り抜けた運転手さんたちの苦闘は、察するに余りあります。
それでも、当時、高速バスの乗客に死傷者はなく、どのバスでも乗客の安全確保という最大の責務を果たしたことは賞賛に値すると思うのです。

次回は、震災後の輸送を担った代替バスの活躍を御紹介致します。

追悼 阪神大震災「高速バスが担った長距離幹線輸送」
追悼 阪神大震災「災害動脈の苦闘~被災地の再生とともに走り続けた鉄道代替バス」


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