自由の女神や五番街、エンパイア・ステートビルを回った日の朝、妻と僕は早起きして、ホテル・ペンシルバニア周辺の7th Ave.を散歩した。
眠らない街、というイメージがあったから、どこか朝食をとれる24時間営業の店が容易く見つかるだろう、と思ったのだ。
しかし、早朝の6時過ぎでも開店している食料品店は確かにあったけれども、いずれもコンビニのような品揃えだった。
日中ならば思い思いに好きな惣菜がとれる、店の中央に鎮座しているケースや、パンやライスが並んでいるはずの陳列棚は大抵空っぽだったし、コーヒーやジュースを入れるサーバーも動いていなかった。
まだ開店時間前なのか、とも思ったけれども、店員さんはジロジロ僕らを見るか、知らん顔しているだけだから、営業時間内なのは間違いないだろう。
他のファーストフード店やレストランは、全て閉まっていたから、僕らは出来合いのサンドイッチなんぞを買うしかなかった。
僕が食べたのは、チキンと野菜がくるまれた「POWER SANDWICH」に、ハム・ベーコンを巻いたサラダである。
昼は、五番街のTiffanyの前で、ホテルで買っておいたサンドを2人で頬張った。
エンパイア・ステートビルから帰ってひと休みしたあとに、さて夕食はどうしよう、という話になった。
ニューヨーク最後の夜くらいは、有名なレストランで豪華ディナーでも、と思っていたのだが、妻がぽつりと、
「私ね……また、Lindy'sのマッシュポテトが食べたいの」
と言った。
高価な夕食になることに対して遠慮しているんじゃないかと思ったけれども、どうやら本気のようだった。
もちろん、僕にも依存はない。
Lindy'sの食事こそ、アメリカの素朴な家庭料理であり、ニューヨーク最後の夜にふさわしいのではないだろうか。
僕も、Lindy'sの、取り澄ましていない雑然とした雰囲気が好きになっていた。
日曜日の夜で、昨日にも増して混雑し、ひときわ賑やかな店内で、テキパキと働くウェイトレスさんに僕が頼んだのは、「Home Style Meat Loaf served with whipped potatoes and topped with home style gravy and vegetable of the day」。
妻は、牛肉のハンバーグに特製のデミグラスソースがかかった料理だった。
もちろん2人とも、マッシュポテト付きである。
いや、正直なところ、マッシュポテトが付いている料理を頼んだと言うべきか。
偶然だが、何となく柔らかそうな肉のメニューを選んだのは、昨日の固いステーキに苦労したトラウマからでもある。
店の賑わいぶりも、何だか祭りのようで好ましく、ニューヨーク旅行の思い出話に花が咲いて、大いにエンジョイしたディナーだった。
ところが、僕らは、数時間後の夜中には小腹が空いてしまっていた。
僕は一服がてら外へ行き、ニューヨークで初めてのマクドナルドに入ってみた。
詳しくはわからなかったが、日本とはどことなくメニューが異なるようで、無難なフィッシュフライがはさまれたハンバーガーを、例によって写真のメニューにふられた番号を告げて注文した。
フィレオフィッシュ、とは書いてなかった気がする。
財布の中に50ドル札しかなく、取り出してみせると、最初から愛想とは無縁だった若い黒人の店員が、口を曲げて首をゆっくりと左右に振った。
釣銭がないのだろうか。
再び財布をのぞきこんでから、僕は肩をすくめた。
無いものはないのだから。
すると、隣りのブースにいた女性の店員さんが早口で何かを言い、黒人の店員さんはしぶしぶといった様子で釣銭を数え始めた。
僕は、くずしたお金で、前の晩に顔見知りになったホテル前の屋台でも、夜食のお買い物をした。
照り焼きの肉と炒め野菜をスパイシーに味つけしたホカホカのクレープである。
部屋で妻と分け合って食べながら、コトの顛末を話すと、妻は、
「あなた、3日間のアメリカ滞在で、したたかになったわねえ」
「そうかなあ?」
「うん、アメリカ人と互角に渡り合えるなんて、凄いじゃない。あなたのおかげで、今回の旅行、ツアーとかのお世話にならないで私たちのペースで見物できたし、あなたが外国旅行初めてなんて思えないよ」
うーん、誉められているのだろうか……
翌朝の朝食も、手軽にLindy'sにした。
スクランブルエッグとカリカリに焼かれたベーコン、貝型のパスタが入ったサラダと、それこそ山盛りの食パンがテーブルに所狭しと並ぶ。
話が先走るけれども、その日の夕方に乗った東京行きの飛行機でも、行きと同様に、機内食が3食出てきた。
アメリカ旅行の最終日は、合計5食を食べたことになる。
往路の6食よりはマシであるが。
往路と共通だったのは2食目のハンバーガーくらいで、あんかけ御飯や寿司、カレーにピザと種類も豊富だったし、付いてくるおかずやデザート、飲み物などもたっぷりだった。
最終日の朝、ホテルから見下ろしたニューヨークは、爽やかな青空に筋雲が流れる快晴のもとに明けた。
しかし、高層ビルが連なる街の底はまだ薄暗く、空とのコントラストが鮮やかな対比を成して、立体的な大都会らしい朝の風景だった。
朝食の後、妻と僕は連れ立って、ホテルに隣接する土産物屋に行った。
人懐っこそうな笑顔を浮かべた店員さんが近寄ってきて、
「Where do you from?」
「Japan、Tokyo」
「Oh! Ma-ji-de? HA HA HA!」
マジで、などという日本語がニューヨークに知れ渡っているとは思わなかった。
誰か、アメリカに来た有名な日本人でも使ったのだろうか。
そのお店は大変に気さくな雰囲気で、しかも値引きまでしてくれたから、ニューヨーク旅行の記念にと、アクセサリーや置物などを幾つか購入した。
我が家のようにくつろいで過ごしたホテル・ペンシルバニア820A号室。
いっぱいに広げていた衣服や日用品をトランクに詰め込んでいると、さすがに旅の終わりが近づいたという寂しさがこみ上げてきた。
ホテルのチェックアウトはスムーズで、追加料金の支払いもなかった。
東京羽田空港行きのアメリカン航空135便が出発するジョン・F・ケネディ国際空港へは、「SUPER SHUTTLE」を使おうと思っていた。
予約を入れれば、指定時間にホテルまで迎えに来てくれる、空港送迎バスだ。
予約は、前日にホテルのカウンターで済ませていた。
遊覧バスや劇場、ミュージアムやレストランなどのチケットが購入できるカウンターで、午後1時にホテルを発つ「SUPER SHUTTLE」を予約したいという旨の英文を前もってメモに書いて準備したが、係員の女性の返事が聞き取れないという、旅の第1日目から全く成長のないパターンで悪戦苦闘した。
乗る航空便などを聞かれてから、その女性はどこかに電話した。
時折、大笑いしながらの彼女の会話の中身がとても気になったけれども、内容がわかる訳がなかった。
それでも、係員さんは親切で、ゆっくりと噛んで含めるように、予約内容を確認し、ホテル横の乗り場まで教えてくれたものだった。
34th St.に面したホテルの横口は、人通りが激しくごった返していたが、空港行きを待っているとおぼしき大きな荷物を抱えた人たちもチラホラ見受けられた。
様々な会社の送迎車が出入りし、真っ青なボディの「SUPER SHUTTLE」も何台かやってきたが、路駐の車が多く、乗降場所の確保に苦労している風だった。
僕らが予約した便ではないかと、その都度聞きに行くのだが、
「What's your name? Oh、wait a minute」
という返事が返ってくるばかりである。
午後1時を数分過ぎた頃、スルスルとやって来て道端に寄って止まった「SUPER SHUTTLE」から降り立った、ジャンパーにジーンズ姿の口髭をはやしたおじさんが、
「○○○!」
と僕らの名字を大声で呼んだ。
長野オリンピックが決まった時の、当時のサラマンチIOC会長の「The City of NAGANO!」の「NAGANO」の発音を思い出させる、尻上がりのイントネーションである。
アメリカ滞在で自分の名前を呼ばれたのは、これが最初で最後だった。
慌ててトランクを転がしながら、チケットを渡して車に乗り込んだ。
車は大型の箱型ワゴンで、運転席を含めて前後4列ある。
一緒に乗った白人女性は運転席の後ろに座り、妻と僕は3列目に陣取った。
運転手さんは、予約を確認しているのだろうか、運転席に固定したスマホの画面を見ながら車を走らせ、市街地をぐるぐる回りながら、幾つかのホテルで客を拾っていく。
ガイドブックには送迎バスと紹介されているけれども、どちらかと言えばタクシーの雰囲気である。
4~5ヶ所のホテルで乗車扱いをすると、車内はほぼ満席になった。
どこを走っているのかは、さっぱりわからなかったが、唯一見覚えがあったのは、Park Ave.を北上し、42nd St.を横切って壮麗なグランド・セントラル駅を迂回、元PAN AMビルのMetLifeビルをくぐる立体交差の部分だった。
前日、五番街に行くときにも通った、印象深い構造の街路だったからである。
途中、渋滞に引っかかったりしたけれども、心配はしなかった。
飛行機の出発時間までには充分過ぎるほどの時間があったからである。
セントラル・パークの手前の59th St.を東へ進み、高架道路に駆け上がった「SUPER SHUTTLE」は、いきなり宙に飛び出した。
遥か下方にはイースト・リバーの青い川面が見える。
櫛の歯をひくように窓外を流れる支柱ごしに、摩天楼が小さく遠ざかっていく。
細かく組み合わさった鉄骨が道路を囲むQueensboro橋で、僕らはマンハッタン島に別れを告げて、ロングアイランドの西端に上陸したのだ。
クイーンズ・ビレッジに入ると、なんとなく殺風景な車窓に変わる。
倉庫街が並ぶ埃っぽい街並みの中を、「SUPER SHUTTLE」は軽快に走り抜けていく。
何となく、羽田空港周辺の埋め立て地帯を思い出す乾いた風景だった。
Long Island ExpresswayやGrand Central Expresswayなどのハイウェイに乗ろうとしているらしく、盛り土や高架への流入路を何度か駆け上がるのだが、どこも大変な渋滞で、車がぎっしり詰まっている。
運転手さんは、ハンドルをぐるぐる回しながらすぐに下道に降りて、ジグザグと路面が荒れて凸凹の裏道をたどる。
揺れが激しく身体を揺さぶって、座面から尻が跳ね上がるような乗り心地だった。
妻は、窓に頭をもたらせながら、眠っている。
反対車線を「New Yoak City」という行き先表示を掲げたGreyhoundバスが走り去っていった。
ロングアイランドの南端、ジャマイカ湾を懐に囲むように広がるJFK国際空港の第8ターミナルのたたずまいは、当たり前のことだが、東京から到着した時と何ら変わってはいなかった。
長かったような短かったような3日間が、一気に短絡した。
東京羽田空港行きアメリカン航空135便の出発予定は、夕方の18時15分だった。
3時間以上の待ち時間があるけれども、僕らは、出国手続きをそそくさと済ませて、待合室で、黙り込んだまま座っていた。
空港は、徐々に夜の闇に包まれていく。
舞台の幕が降り、出演者が一礼しながら退場していくように、ゆっくりと外の景色が暗転していく。
まばゆいばかりの照明だけを残して。
羽田への到着時刻は、日本時間で翌日の深夜22時15分である。
日付変更線を東から西へ越えるため、今度は、丸1日が消えてしまう。
航路は、千島列島からアリューシャン列島、アラスカの南側を楕円形に飛行した往路よりも更に北寄りで、アメリカ、カナダを縦断して北極圏まで飛び出すという大回りになる。
偏西風を避けるためだろうか。
所要時間は、14時間05分にも及ぶ。
搭乗のアナウンスには、ほとんど訛りのない日本語が混ざっていた。
久しぶりに聞く、我が母国の言葉だった。
言葉が通じないことで緊張しっぱなし、失敗だらけの旅だったけれども、なぜか、もう少しその生活を続けたい気持ちだった。
僕のような海外初心者の異邦人をも受け入れてくれた、懐の深い国。
僕の脳裏には、すれ違い、関わり合い、言葉を交わしたアメリカの人々の顔が、感謝の念とともに次々と浮かんだ。
アメリカン航空135便は、点々と光が連なる誘導路をゆっくりとタキシングしてから、いきなり加速を始めて、轟々とエンジン音をとどろかせながらフワッと浮き上がった。
眼下に一瞬、きらめく街の灯りがはためいたが、すぐに機体を包みこんだ分厚い雲に視界は遮られた。
Good-bye、さようなら、ニューヨーク。
See you again、アメリカの人たち。
Thank you very much、thank you so much!──
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